著者
増渕 文男
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.57-67, 1993-06-01 (Released:2010-06-15)
参考文献数
19

昭和30年代後半に交通戦争と呼ばれる社会的な問題が生じた。そこで歩行者に対する道路横断時の安全対策として、完全な歩車分離式の横断歩道橋が考えられた。国内最初のものは昭和34 (1959) 年、愛知県に建設され、その後全国各地へ普及した。しかし、近年の社会環境の大幅な改善により、景観の観点からみると経済性に徹した横断歩道橋は、その存在に問題が生じてきた。本論文はこの横断歩道橋に着目した。類似の構造物があるため、これを整理し、横断歩道橋は人を渡す跨道橋の一部と定義した。そして跨道橋の建設事例や設計基準の変遷を調べ、我国の現在に至る跨道橋の設計思想を分析した。この結果、跨道橋の初めての建設年表を作成し、我国最初の横断歩道橋の建設とその前後の経緯を明確に整理した。また道路と跨道橋の法的関係、昇降階段の歩道への設置の経緯、そして構造形式の変遷など歴史的事実が判明した。
著者
増渕 文男
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.119-122, 1991-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
5

日本の歴史に「横浜」が登場するのは江戸時代の幕末期で、港を中心とした横浜北部地域が中心であり、これが今日の横浜のイメージとして広く定着している。しかし南部地域にはこれより古い遺構がみられるようで、本研究は横浜南部の土本遺構を調べ、石橋の一橋「昇龍橋」について報告するものである。昇龍橋の架設位置は横浜市南部にある栄区の狙川上流部で、この河川には土木遺構として石橋の他に溜池、堰、及びずい道などがある。しかし、これらの遺構は付近の住民一部が知るだけで、一般的にはあまり知られていない。石橋の構造形式といえば九州の石橋があげられるが、昇龍橋はそれと類似性が少なく、何処の石工が建造したものか不明である。石材は当地の鎌倉産「今泉石」を使用しており、軽快な感じと独特な趣をもつ石橋である。架設年代は親柱に大正四年の刻印があり、かすかに読み取れるが、親柱と石橋本体とは石材が異なるので、まだ明確にはなっていない。石橋の建造には高度な技術が必要であるが、何故この地にその技術が展開されたかなど追究すべき点が多い。この周辺には江戸時代を中心に土木遺構が多く存在し、高度の技術力と文化、それを支える経済力を温存してきたが、近年になり衰退し開発事業の影響が心配される地域である。
著者
増渕 文男 安達 万里子
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.511-516, 1995-06-09 (Released:2010-06-15)
参考文献数
14

我が国では横断歩道橋が出現してから30年以上を経ており、架け替えなとによる新たな時代を迎えようとしている。しかし、横断歩道橋の変遷についてはまだ不明な部分が多く、研究を必要としている。本報は全国統一の設計基準が整備される以前の、昭和30年代に建設された横断歩道橋についての調査研究をおこなった。岐阜市では昭和37年から3年間で19橋を建設しており、先駆的な存在であった。しかし、その詳細は不明な点が多く、そのため構造形式や建設背景を調べた。また、比較事例として東京オリンピック開催時に多数の歩道橋を建設した東京都と、新設された国道43号線上に歩道橋を架けた兵庫県を対象とした。その結果、岐阜市においては実行力のある市長によって通学児童生徒の保護を目的として建設を進めていた。東京都と兵庫県においては、交通の円滑化を目的として短期間に建設されていた。岐阜市の場合はコンパクトな構造で現在も使用されており、構造形式及び意匠は優れたもので貴重な歩道橋が多数あった。当時は各都市独自で設計の基準を作成し、歩道橋として独特な構造形式をしていた。そして建設費削減及び、工事期間短縮のため標準化が行われていた。標準形式には岐阜市においてはトラス、東京都は単径間ラーメン、兵庫県は2径間ラーメンが採用されていた。
著者
関 正寿 増渕 文男
出版者
学校法人ものつくり大学
雑誌
ものつくり大学紀要 (ISSN:21853746)
巻号頁・発行日
no.4, pp.76-83, 2013

In this paper, I will trace the history of freight transport system between Kita Kanto region and Yokohama port, which was triggered by the impact of opening the Yokohama port in 1859 based on the Treaty of Kanagawa in 1854. This system was established with the purpose of transporting raw silk and silk textiles, and had much effect on the prosperity of both areas. I will demonstrate its transition in the first half of Meiji Era, focusing on basic historical data on silk freight transport system.