著者
増田 一裕
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.3, no.3, pp.21-52, 1996-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
125

半島から導入された横穴式石室は,およそ300年の長きにわたり,凡列島的な規模でわが国の古墳時代後期における葬制として採用され消長していく。1体埋葬にとどまらず,同一の内部構造に追葬が可能となった,この革新的な構造は,6世紀ころより倭王権の公葬制として採用され,次第に大型化・巨石積み化へと発展し,さらに切石造りの整美な石室に変化して,やがて,葬制の主体は横口式石槨に交替していく。畿内における大型横穴式石室の消長は,従来より一系列で把握されてきたが,玄室形態に共通型式を求めた時,実は複数の型式が互いに影響を及ぼしつつ多元的に展開していることが判明する。これらの中で,主系列が存在する。それは,大王家と最高執政官層の象徴的産物で,主系列の導入と技術的変化の背景には物部大連氏が大きく関与し,内在的に巨石積み,少段積み化をはたしていく。しかし,7世紀代に入ると,物部連と姻戚関係を成立させた蘇我大臣がその主導権を掌握し,やがて最大の横穴式石室,見瀬丸山古墳と切石積みの岩屋山式石室を完成させる。このように,量的に限定された大型横穴式石室の消長をもとに,被葬者層の動向を追跡する。