著者
大野 昌彦
出版者
医学書院
雑誌
看護学雑誌 (ISSN:03869830)
巻号頁・発行日
vol.31, no.3, pp.132-133, 1967-03-01

日本とのつながり 「非常にかわった女の新聞記者がいるから是非紹介しよう。だが,かなり猛烈な顔をしているから,女の新聞記者だからときいて好奇心を出すのだったら当てがちがうぜ,と冗談をいいながら誰かが紹介してくれた人が,スメドレー女史であった」と尾崎秀美は書いている。尾崎が上海のパレスホテルのロビーで待っていると,赤い色の散歩服を着てとびこんで来て,腰をおろすが早いか,初対面の挨拶そっちのけで話し出した。ときどきシガレット・ケースを開いてはタバコをすすめながら,みずからも喫った。中国農業問題について日本人の研究にどんなものがあるかと問い,尾崎の話があいまいであったり,自信なげであったりすると,すかさず切りこんで,尾崎を面くらわせた。「わたしはそのときつくづく女史の顔を見た。顔はなるほど綺麗とはずいぶん縁の遠いものであった。しかしわたしはその後いく度か会ううちに,女史の顔を美しいと思うことすらあった。とても無邪気な笑い顔だった」と尾崎はいっている。 1931年当時,スメドレーはドイツのフランクフルター・ツァイツンク特派員として,尾崎は朝日の記者としてそれぞれ中国に渡ってきていた。スメドレーは,すでに11ヵ国語に訳されている自伝小説“Daughterof Earth”をもつ国際的記者であり尾崎は中国問題に日本人としては独自の見解を示す新進の記者であった。