著者
宇都 弥生
出版者
日本ロシア文学会
雑誌
ロシア語ロシア文学研究
巻号頁・発行日
no.34, 2002

「ロシアのソクラテス」,「ロシア最初の哲学者」などと称されるグリゴーリィ・スコヴォロダー(1722-1794)の,その生き様と思想は,後代のロシア(知識)人たちに少なからず影響を与えてきた。スコヴォロダー研究が我々にとって興味深いものとなるのも,様々な霊感の源たりえた彼の思想の懐の広さゆえと言える。無論,「思想家」スコヴォロダーの根本思想を理解するためには,何よりもまず哲学的観点に基づく著作の内在的分析が不可欠である。だが,そもそもこの哲学的観点というものは,個別の思想家研究にうまく適用ないし応用できるほど自明で確固たる基としてあるわけではなく,むしろ研究者自身がこれを常に自覚的に模索し,提示してゆかねばならない。そこで本報告では,スコヴォロダーの著作の哲学的読解の可能性とその方法的基礎について探るべく,ロシア哲学史におけるスコヴォロダーへの評価,及びそれが拠って立つ哲学観を再検討した。検討の材料として取り上げたのは,А. И. ヴヴェジェンスキィ,З. Л. ラドロフ,А. Ф. ローセフ,Б. В. ヤコヴェンコ,Г. Г. シュペートという20世紀初頭の5人のアカデミックな哲学(研究)者たちによる「ロシア哲学史」記述である。彼らのスコヴォロダー評価は,ラドロフやローセフによる「より積極的な評価」と,ヴヴェジェンスキィ,ヤコヴェンコ,シュペートらによる「より消極的・否定的な評価」とに大別することが出来る。さらに,彼らの哲学史記述全体を貫いている哲学観に遡ってみると,そのような個別的評価を成り立たせている根拠が理解される。前者(ラドロフ,ローセフ)は体系的・論理的な思考法が把捉し尽くすことの出来ない神秘的側面をこそ哲学は探究すべきと考える。そこで,このテーマを一貫して考え抜いてきたロシア哲学,およびスコヴォロダーを評価し,逆に体系性や論理性ばかりを重視する西欧哲学に対しては批判的なのである。他方後者(ヴヴェジェンスキィ,ヤコヴェンコ,シュペート)は,哲学の形式が地域的・時代的に多様であることを認めばするものの,それらは次第に普遍的な形式(方法・制度を含む)へと高まっていくべきだと考える。それゆえ彼らは概してロシア哲学の形式の未熟さに対し批判的であり,またその黎明期・前史に位置するスコヴォロダーを自制心をもって評価するのである。どちらにもそれなりに尤もな根拠が認められる以上,哲学的観点からスコヴォロダーを研究する際,双方の視点を取り入れ,説得的な論を構築しなければならないだろう。スコヴォロダーの思索に西欧哲学には見出すことの出来ない,ロシア哲学独自の志向があるということをひとまず認めながらも,それが何であるかを,地域的・時代的制約にも目を配る「哲学の歴史」というものを視野に入れつつ,吟味しなければならない。