著者
客野 遥
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.77, no.4, pp.215-221, 2022-04-05 (Released:2022-04-05)
参考文献数
26

水は私たちにとって最も身近な物質のひとつであり,あらゆる環境下に存在する.中でも,制限された空間に閉じ込められた水は,バルクとは異なる振る舞いを示す.このような空間的な制限下にある水は生体や地殻内などに存在し,非常に重要な役割を担っている.例えば,生体膜のチャネルにおける水やイオンの透過,タンパク質の折り畳み,粘土鉱物の膨潤などの現象が例に挙げられる.しかしその現象の多くは詳細な機構が未だ十分に明らかにされていない.また一方で,バルクにおいても水の物性はまだ十分に理解されていない(例えば4°Cで密度が最大になることなど).制限空間内の水の研究は,バルク水の未解明物性の解明にも貢献すると期待されている.さて,ナノサイズの空洞(制限ナノ空間)を有する物質は数多く存在し,その空洞次元,空洞サイズ,空洞壁の性質(親水/疎水性)などはさまざまである.たとえば,単層カーボンナノチューブ(Single-Walled Carbon Nanotubes, SWCNTs)は炭素原子のみから成るナノ構造物質であり,疎水性の1次元空洞を有する.一方,Mobil Composition of Matter 41(MCM-41)はシリカ材料から合成され,親水性の1次元空洞を有する.我々はこのようなナノ空洞の性質が,内包水の物性にどのように影響するかに着目して研究を行っている.本稿では,とくにSWCNTについての研究を紹介する.SWCNTはその直径Dをほぼ連続的に変化させることができるため,1次元空洞における水の性質を系統的に調べるのに適したモデルシステムである.これまでに,比較的直径が小さいSWCNT(D<~1.5 nm)については,さまざまな実験や計算機シミュレーションが世界中で盛んに行われてきた.一方で,直径をより大きくしたバルク領域につながる振る舞いに関しては,実験,シミュレーションともに報告が少なく重要課題の1つとなっていた.本研究では,直径が異なる複数のSWCNT試料(D>1.45 nm)を用いて,直径や温度に対して内包水の物性がどのように変化するかを系統的に調べた.研究手法は,核磁気共鳴実験,X線回折実験,古典分子動力学計算などである.その結果,210 K付近で内包水の構造と分子回転運動の両方に不連続な変化が観測された.詳細な解析により,これは異なる2つの状態(液体と固体,もしくは運動の速い液体から運動の遅い液体)の間での不連続転移であることが明らかになった.その転移温度TCはSWCNTの直径に依存し,直径をバルク(1/D→0)へ外挿するとTC~230 Kとなる.この温度は,バルク過冷却水において比熱や等温圧縮率などの熱力学量が無限大に発散するとされている特異温度TS~228 Kとほぼ一致する.これはナノ空洞内の水が,未解明であるバルク水の物性へと繋がる知見を与えることを示すものである.また,SWCNTについて得られた結果を,ナノ空洞を有する他の物質に内包された水と比較したところ,総じて,ナノ空洞のサイズが小さく空洞壁が疎水的であるほど水の分子回転運動が速いことがわかった.さらに,ナノ空洞の形状の効果を調べるため,チューブ軸に垂直な方向の外力で変形させたSWCNTに内包した水の分子動力学計算を行った.その結果,扁平化させたSWCNTでは,内包水がこれまでにない新しい氷構造(リボン状の氷)を形成することが示された.このように,さまざまなナノ空洞における水の性質を系統的に理解することは,水の基礎科学にとどまらず,新たなナノ流体デバイスやプロトン伝導体デバイスなどの創製にも貢献することが期待される.