- 著者
-
宮尾 大輔
- 出版者
- 東京大学大学院総合文化研究科附属アメリカ太平洋地域研究センター
- 雑誌
- アメリカ太平洋研究 (ISSN:13462989)
- 巻号頁・発行日
- vol.2, pp.129-145, 2002-03
米国無声映画界の日本人スター早川雪洲は、彼のスターダムを築いたジェシー。L・ラスキー映画会社との契約が切れるのを契機に、1918年3月、自らの映画製作会社、ハワース映画会社を設立した。ラスキー社での主演作品は、主に偏見に満ちた日本像を利用したものだったため、早川は米国内の日系人コミュニティーにおける自身の評判を気にかけていた。そのため、自社ハワースでは、まずそれまでの自身のスター・イメージを離れ、より「現実的で本物らしい」日本人を描く映画を製作することを宣言していた。しかし、一方、米国映画界において会社を経営する以上、早川は米国人観客からの人気を維持することも必要としていた。早川は、米国人を魅了するのと同時に、米国内の日系人に対し現実的な日本人像を提示しなければならなかったのである。つまり、ハワース社において、早川のスター・イメージは、少なくとも3つのグループの思惑や利害関係が交錯するなかで形成されていたと考えることができる。3つのグループとは、ハワース社のスターであり、なおかつ映画製作の責任を持つ早川自身、米国の映画観客、そして日系人社会である。本論文は、早川が提示した「日本」と米国観客が求める「日本」、そして米国在住及び日本の観客が求める「日本」とが、各々いかにハワース社における早川のスター・イメージを決定していく要因となったかを、人種主義およびネイティヴィズムが高まりを見せた第一次世界大戦期の米国社会の歴史的文脈の中で検討する。本論文は、まずロスアンゼルスの日系新聞「羅府新報』が早川についていかに論じたかを検討する。次に、ハワース社で製作された最初の2本の早川主演映画(「異郷の親』および「Banzai」)を精密に分析し、早川のスター・イメージがいかにして3つのグループの文化的な摩擦と交渉の結果形成されていったのか明らかにする。