- 著者
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宮﨑 勝正
- 出版者
- 北海道大学大学院文学院
- 雑誌
- 研究論集 (ISSN:24352799)
- 巻号頁・発行日
- vol.20, pp.51-71, 2021-03-31
遊びとは,誰もが知っている身近な経験である。遊びは楽しみや歓びをもたらしてくれるだけでなく,私たちの生の一部として重要な役割を担っていると考えられている。しかし,遊びを扱う諸研究においては未だに,遊びがそもそもどのような現象であり,それ以外の活動からいかに区別されるのか,といった本質的な問題に対して十分な説明が与えられていない。遊びの本質を捉えるような説明は,いかなる視点と方法によって可能だろうか。本稿はホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を批判的に検討することからはじめる。ホイジンガによる遊び自体の定義と,それに基づく文化因子としての機能についての説明を概括する。続いて,ホイジンガが遊びと見なしている具体的な文化活動の例をいくつか取り上げ,遊びであるという説明がいかなる論拠に基づいて行なわれているのかを見ていく。そのなかで,ホイジンガの遊戯論における二つの問題点を明らかにする。一つは,遊びを内から見るか外から見るかの二つの視点が混在していることである。もう一つは遊びを遊び自体の特徴から説明するか文化因子としての機能から説明するかの二つの説明方法が錯綜していることである。ホイジンガ批判を踏まえて,遊びの機能を扱う研究と,遊び自体を扱う研究をそれぞれ概観する。まず,遊びに想定された機能を5つに大別して簡単に見渡し,機能を中心問題とする議論では,遊び全般に当てはまる一貫した説明を行なうことが難しいことを示す。次に,遊び自体を扱う議論としてアンリオと西村の遊戯論を挙げ,要点を整理する。遊び自体を扱う議論は,あらゆる形式の遊びに対し包括的な説明を与えうる。しかし,アンリオと西村の遊戯論は遊び自体の本質を十分に説明しきるものではなく,より詳細な分析の余地を残していることを示す。最後に,遊びの本質に迫るための視点と説明方法について考察する。人が遊びを本来的な姿で見出すのは,遊び手として現に遊んでいるときではないか。直の経験としての遊び自体こそ遊戯論の目指すべき対象であるという考えを提示し,遊び研究における遊び手の視点に基づいた遊び自体の分析の必要性を主張する。