著者
村松 哲夫
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.25-42, 2013-12-20

インフォームド・コンセントが法的にも倫理的にも有効な手続きとして機 能するためには,インフォームド・コンセントが成立するための諸過程が適 切な順番で移行しなければならない。その順番とは,以下の通りである。す なわち,患者は,医療者に対して,自分の既往症や状態について説明する。 その上で,医療者は,患者から提供されたこの情報を元に医学的に妥当であ り,かつ,必要な治療・検査の性質やリスクについて十分に説明する。患者 は,医療者から提供されたこの情報を元に,自分の計画や嗜好,思想信条的 な制約を考慮しながら,当該治療・検査について承諾するかしないかを決め る。承諾する場合,その旨を書面で交換する。 このような過程を順番に移行することによって,有効な手続きとしてのイ ンフォームド・コンセントが成立する。 サルゴ判決(1957)で確認したように,医療における意思決定において, 説明は治療・検査に先立つ。この順番が入れ変われば,当該治療・検査が実 施された後に,患者に対する説明が行われることになる。これでは,患者が 当該治療・検査の実施について検討し,その諾否を決定する機会が奪われて しまう。また,当該治療・検査の承諾に関する手続きは有効ではなくなる。 有効ではない手続きによって行われた治療・検査は,合法化も正当化もでき ない。 説明に着目すると,患者側から見れば,自分の症状や既往歴などを正確に 記述しているという意味において,医療者側から見れば,当該治療・検査の 性質やリスクを正確に記述しているという意味において,正しい情報を相手 に提供する必要がある。正しくない情報を元になされた判断には,それを正 当化する根拠が乏しいからである。 その上で,副作用や重大な後遺症などといった有害事象が発生した場合, 当該治療・検査に医療過誤がなければ,その原因として考え得るのは,イン フォームド・コンセントの手続きが成立する過程に瑕疵があったということ である。すなわち,患者,もしくは,医療者がその相手に正しい情報を提供 していなかった,ということにある。 患者と医療者とのやりとりの過程が適切に移行すると,手続きとしてのイ ンフォームド・コンセントが成立する。この過程に瑕疵があれば,有効な手 続きではなく,これに基づく医療行為は合法化・正当化されない。医療過誤 がなかったのにもかかわらず,副作用や後遺症といった有害事象が発生した 場合,インフォームド・コンセントの手続きが成立した過程のどこかに瑕疵 がある。
著者
間枝 遼太郎
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.17-37, 2021-03-31

本稿では、叡山文庫天海蔵に蔵される『諏訪大明神画詞』の写本を紹介し、そのうちの縁起絵第五までの翻刻を行う。『諏訪大明神画詞』の写本はこれまで諸本系統が整理される中で十数本が確認されているが、当該写本はそれら先行研究にて言及されたことのない新出本である。 「天海蔵」は南光坊天海が蒐集した典籍の総称で、それらは天海の死後、承応三年(一六五四)に毘沙門堂公海により日光山・比叡山・東叡山の三山に分置された。現在の叡山文庫天海蔵の典籍の多くは、その際に比叡山に配されたものである。そこから当該写本についても天海旧蔵本であったことが予想されるが、そのことは、同じく新出本である正教蔵文庫本『諏訪大明神画詞』の奥書に、万治二年(一六五九)に慈眼大師(天海)の本より書写した、とあることから裏付けられる。この正教蔵文庫本の底本となった「慈眼大師御本」こそ、現存する叡山文庫天海蔵本のことであると判断でき、その書写年代は少なくとも天海の死去する寛永二十年(一六四三)以前と考えられるのである。 なお、『諏訪大明神画詞』の諸本の書写年代は、最も古いものが文明四年(一四七二)写の権祝本(神長官守矢史料館所蔵)、次に古いものが慶長六年(一六〇一)写の梵舜本(東京国立博物館所蔵)とされるため、この叡山文庫天海蔵本は現在確認できる中でおおよそ三番目に古い写本ということになる。ただし、最古写本とされてきた権祝本に関しては、権祝綱政(明暦三年(一六五七)死去)の書写本を写した系統の本であり江戸中期以降の成立ではないか、とする説もあり、その書写年代については更なる検討が必要な状況にある。権祝綱政書写本と同時期かそれよりやや早くに成立したと考えられる叡山文庫天海蔵本の存在とその本文は、そうした諸本の問題を考える際にも重要な手掛かりを与えてくれるだろう。
著者
猪野 毅
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.161-185, 2010-12-24

小論は、山川九一郎著の『奇門遁甲千金書』という書を解読するために、まずその前提として「奇門遁甲」の基本的な概念や考え方について、まとめようと試みるものである。 『四庫全書総目』子部・術数類の中に収められている奇門遁甲に関係する文献には、『遁甲演義』二巻、『奇門遁甲賦』一巻、『黄帝奇門遁甲図』一巻、『奇門要略』一巻、『太乙遁甲専征賦』一巻、『遁甲吉方直指』一巻、『奇門説要』一巻、『太乙金鏡式経』十巻、『六壬大全』十二巻。また、『古今図書集成』や『隋書』経籍志にも遁甲の書が見える。 「遁甲」なる言葉は、史書においては『後漢書』方術伝・高獲伝・趙彦伝に初めて見え、また『陳書』『魏書』『北斉書』『南史』などにも「遁甲」の名称が見える。日本でも『日本書紀』推古天皇十年(602)条に「遁甲」が伝来したことが見える。『遁甲演義』・『奇門遁甲秘笈大全』などにより奇門遁甲の基本概念を考えると、甲を除いた乙・丙・丁を「三奇」とし、戊・己・庚・辰・壬・癸を「六儀」として、八卦の入った洛書九宮の枠に組み合わせ、その他、休、生、傷、杜、景、死、驚、開の「八門」、直符、螣蛇、太陰、六合、勾陳、朱雀、九地、九天の「八神」(あるいは太常を入れて「九神」)、また天蓬星・天任星・天冲星・天輔星・天英星・天芮星・天柱星・天心星・天禽星の「九星」を並べて「遁甲盤」を作り上げ、占う年月日時を六十干支で表し、「天の時」「地の利」「人の和」に基づいて占いを行う。その占い方には、洛書九宮の八枠を円盤に見立てて回転移動させる排宮法と、洛書九宮の数の順序通りに移動させる飛宮法があり、山川九一郎『奇門遁甲千金書』の占い方は排宮法を用いている。 遁甲盤を並べ終えたら、それぞれ九星・八門・八神(または九神)などの表す意味や、相互の影響を考えて、吉凶を判断する。 奇門遁甲は方位学(空間の学、洛書学)であり、干支学(時間の学、暦学)でもあるあるので、奇門遁甲は時間と空間を統合した学問と言える。さらに、空間を洛書に従って九つに分け、時間を六十干支に従って六十に分割し、独自の世界観を構築している。また、九神・九星が天、九宮が地、八門が人という、「天・地・人」をイメージした世界を構成している占術なのである。
著者
本間 愛理
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.37-54, 2014-12-20

本稿では,宗教人類学の立場に立ち,スピリチュアリティ論やアニミズム論の流れの中にエストニアのMaauskを位置づけ,特にそこで見られる自然と人間の関係性に注目して考察を進めている。また,かつては文化進化論の文脈で用いられたアニミズムという古典的な概念を,Maauskを通して再考することの意義と,そこでMaauskがどのような貢献をなし得るのかを検討している。まず,かつては国教の地位にあったルター派キリスト教が,ソビエトによる支配の時代を経て,著しく衰退した現代エストニアで,Maauskという「エストニア人固有の土地」との結びつきを強調する動きが,人々に親しみを湧かせていることを契機として,それまでのエストニアやMaauskの歴史を振り返っている。そして,人間だけではなく,人間を取り巻くあらゆる非人間も「スピリット」を持っており,それらとの調和的な関係を保ち,うまく生きていくことを目指すMaauskの特徴は,自然と文化を決して切り離さない点にあることを論じている。Maauskは,エストニアの自然の中で人々がつないできた自然との関係性だけではなく,その関係性の中で生まれた「伝統文化」を重視する。そこでは,文化を持ち環境に適応する人間とその周囲に外在する自然という,自然と人間を対峙させた世界の捉え方ではなく,自然と文化をひとつながりの連続体とする世界の捉え方がなされていることが明らかになった。Maauskを通して結ばれる,人間と非人間,人間と人間の関係性は,矛盾や葛藤がありながらも,よりうまく生きていくためのポジティヴなつながりとして探求されている。ナショナリズムに陥る危険性や,Maauskに関わることによる人間関係の不具合などの課題は残しつつも,自然と文化の融合の中,すべてのものがひとつの関係性に生きていることを意識し,人間の目には見えない世界,すなわち,スピリットの世界に目を開かせるMaauskは,アニミズム概念や人間中心主義を考え直す大きな手がかりとなるだろう。
著者
高雄 芙美
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.125-141, 2014-12-20

西日本各地で標準語化とともに関西方言化が進んでいるが広島では他地域ほど関西方言化が見られないことが指摘されている。この他地域とは異なる広島方言の特性を捉えるためには広島方言の実態を明らかにする必要がある。本稿では広島方言の「のだ」形式について,標準語,関西方言と比較し記述することで,広島方言の文法的特徴の一面を明らかにする。加藤2003,2006によると「のだ」は,命題内容について判断済みの情報である,ということを表す。また終助詞「よ」は命題内容について,発話者が排他的な知識管理をおこなう準備あること示す。どちらも話者の知識管理に関わる談話マーカーである。広島方言,関西方言では名詞化辞「の」は「ん」となり,「のだ」は広島方言では「んじゃ」,関西方言では「んや」となる。「んじゃ」「んや」の前が否定辞「ん」「へん」など撥音のときは「のじゃ」「のや」のようになる。「んじゃ」「んや」は言い切りの場合,気づき・発見の用法で使われることが多い。自分の情報を披瀝する場合は広島方言では「んよ」,関西方言では「ねん」が使われることが多い。広島方言では「*んじゃよ」とはならず「んよ」と,名詞化辞「ん」に直接「よ」がつく。伝聞の形式「んと〔んだって〕」も名詞化辞「ん」のあとにコピュラ辞が現れない。推量形や従属節などは広島方言では「んじゃろう」「んじゃけど」のように「んじゃ」が現れるが,関西方言では「んやけど」「ねんけど」のように「んや」「ねん」の両方が現れる。また「のなら」「のだったら」のような仮定形は広島方言では「んなら」が一般的で,関西方言では「なら」は使われず「んやったら」が一般的である。広島方言では従属節の「んじゃけー〔んだから〕」,「んと〔んだって〕」で在来の方言形が保たれているが,関西方言では「んやから」「んやって」のように標準語と同じ形式が使用されている。関西方言は「ねん」のような独自の方言形式を持つ一方使用頻度の高い文法形式に標準語化が見られる。広島方言は「ねん」のような独自の形式はないが,「のだ」形に用いられるような使用頻度の高い文法形式で在来の方言形を保持している。
著者
間枝 遼太郎
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.59-79, 2022-01-31

本稿では、叡山文庫天海蔵『諏訪大明神画詞』の祭絵部第一から第七、および末尾に付随する『当社春日大明神之秘記』の翻刻を行い、また『当社春日大明神之秘記』の解題を付す。 『当社春日大明神之秘記』は、諏訪信仰研究においては『諏訪大明神画詞』の教林文庫本などの末尾に付随している文献として比較的古くから存在が認識されていたものの、春日社の研究ではあまり知られないものであった。春日社の社記を多く収録する『神道大系』神社編十三春日(神道大系編纂会、一九八五年)や藤原重雄・坪内綾子・巽昌子「中世春日社社記拾遺」(『根津美術館紀要此君』第四号、二〇一三年三月)などでも紹介はなされていない。 『当社春日大明神之秘記』の作成者と考えられる人物は、元亀三年(一五七二)の奥書に名が記される「采女春近」である。采女春近は春日社の神人(下級神職)の中でも有力な家である南郷常住神殿守家(采女姓)の人間と推測され、故実に詳しい人物であったと思われる。 『当社春日大明神之秘記』の内容は、基本的に文永年間頃成立の『中臣祐賢春日御社縁起注進文』を素材としながら、十六世紀の当時までに伝わっていた他説、さらには比較的新しい説なども組み込んだものとなっている。室町時代には春日社の社家による社記の研究は停滞したとも言われるが、『当社春日大明神之秘記』はそのような時期における、春日社の社記に関する活動を示す貴重な資料の一つとして位置付けることができる。
著者
武藤 三代平
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.15-32, 2016-12-15

これまで明治政治史を論及する際,榎本武揚は黒田清隆を領袖と仰ぐこと で,その権力基盤を維持しているものとされてきた。箱館戦争を降伏して獄 中にあった榎本を,黒田が助命運動を展開して赦免に至った一事は美談とし ても完成され,人口に膾炙している。そのためもあり,黒田が明治政界に進 出した榎本の後ろ盾となり,終始一貫して,両者が「盟友」関係にあったこ とは疑いを挟む余地がないと考えられてきた。はたしてこの「榎本=黒田」 という権力構図を鵜呑みにしてよいのだろうか。 榎本に関する個人研究では,明治政府内で栄達する榎本を,黒田の政治権 力が背景にあるとし,盲目的に有能視する論理で説明をしてきた。榎本を政 府内でのピンチヒッターとする一事も,その有能論から派生した評価である。 しかし,榎本もまた浮沈を伴いながら政界を歩んだ,藩閥政府内での一人の 政治的アクターである。ひたすら有能論を唱える定説が,かえって榎本の政 府内での立ち位置を曇らせる要因となっている。 本稿では榎本が本格的に中央政界に進出した明治十年代を中心とし,井上 馨との関係を基軸に榎本の事績を再検討することで,太政官制度から内閣制 度発足に至るまでの榎本の政治的な位置づけを定義するものである。この明 治十年代,榎本と黒田の関係は最も疎遠になる。1879年,井上馨が外務卿に なると,榎本は外務大輔に就任し,その信頼関係を構築する。これ以降,榎 本の海軍卿,宮内省出仕,駐清特命全権公使,そして内閣制度発足とともに 逓信大臣に就任するまでの過程において,随所に井上馨による後援が確認さ れる。この事実は,従来の政治史において定説とされてきた,「榎本=黒田」 という藩閥的な権力構図を根本から見直さなければならない可能性をはらん でいる。

11 0 0 0 OA 圏論と構造主義

著者
深山 洋平
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.31-46, 2012-12-26

ヘルマン(Geoffrey Hellman)は2003年の著作〝Does category theory provide a framework for mathematical structuralism?"(Hellman,2003)にお いて,マックレーン(Saunders Mac Lane)による数学の圏論的基礎付け(Mac Lane& Moerdijk,1992)とアウディ(Steve Awodey)の圏論を用いる構造 主義(Awodey,1996)を誤って結びつけた。彼がどのように誤ったかは,ア ウディの圏論を用いる構造主義の実際を見ることで理解できる。さらにアウ ディの構造主義に特徴的な「図式」の概念(Awodey,2004)に対してヘルマ ンは数学的真理の所在と射のみの立場の一貫性の観点から疑問を呈している (Hellman,2009)。前者の問いは図式の指示の観点から実際に問題であり,後 者の疑問は不適切な問題設定であると思われる。
著者
鈴木 仁
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.1-21, 2016-12-15

本論は、樺太における地名選定と、その後の地名研究の活動から、日本領に再構築される樺太での日本人の領土意識を考 察したものである。 第一節では、幕府や開拓使における樺太の地名の取り扱いをまとめた。アイヌ語地名を漢字表記した行政地名化は北海道 で実施され、開拓使・北海道庁や各支庁による選定がなされており、樺太では明治六年(一八七三)に「樺太州各所地名」 が定められる。だが、各地の表記が整理される前に、明治八年のサンクトペテルブルク条約(樺太千島交換条約)により島 の全域はロシア帝国領となった。 第二節では、日露戦争中に樺太を占領した現地の部隊による地名改称と、これに対する地理・歴史学者たちの反応をまと めた。明治三十八年(一九〇五)七月に占領が進められたロシア領サハリン(樺太)には、勝利を記念して地名が付けられ たが、北海道にもあるアイヌ語地名が樺太で消されていることに反対する意見が出されている。 第三節では、明治四十年(一九〇七)四月に開設された樺太庁による地名選定事業についてまとめた。一部に意訳や日本 語地名の新たな設置もあるが、選定の基本方針はロシア語地名を排除し、原名となるアイヌ語地名を調べ、その語音の漢字 表記としている。大正四年(一九一五)八月に、樺太で郡町村が編制されると、広域地名にも採用されている。 第四節は地名研究史とした。樺太の地名には多様な民族と歴史変遷により、アイヌ語以外の言語も影響しているため、島 内では歴史研究の資料として調査されている。本論では、その調査活動のなかから、昭和期には広まった郷土研究により、 異文化であったアイヌ語が郷土の文化として研究される過程をまとめ、昭和五年(一九三〇)に樺太郷土会から発行された 『樺太の地名』を日本人住民による一つの成果として取り上げた。加えて戦後の出身者によるアイヌ語地名研究の見直しや、 郷土の記憶として資料化されたことも補足した。
著者
崔 文婕
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.123-140, 2022-01-31

本論は,映画監督・脚本家の大和屋竺が独自に構築し,J ホラーにも影響を与えた「恐怖映画論」の背景についての研究である。彼の書いたもの(体系的ではない)を縦断して得られる「恐怖映画」の認識は一見,同時代の日本映画批評と同じ土壌にありながら,大和屋自身の経験(たとえば本土から離れた北海道出身であること,インドでの流浪体験など)と,思想(西洋思想に影響されるのではなく,自分の実体験に基づく思考)によって,独自の寓喩性に向かう進展を見せた。基本にあったのは,現代美術の「オブジェ」を捉える着眼,さらにはアヴァンギャルディズムとドキュメンタリズムに関わる見解で,彼の述懐では,日活へ入社して具体的に映画作家の道に入る前に,花田清輝と松本俊夫から影響を受けている。また,オブジェに関する見解もほぼ松本俊夫を踏襲している。ところがその後の大和屋自身の奔放な映画評論,あるいは師匠・鈴木清順の「非連続」の美学への接近により,さらに本質的・前衛的な恐怖映画観が生まれた(それを,J ホラーブームを牽引したひとり高橋洋らに継承される)。本論は大和屋の映画理論の源流の探求を目的に,彼の実作活動と批評活動に照明を当て,松本俊夫のアヴァンギャルド理論との相違点を明らかにする。第一節では,大和屋のオブジェ論を中心に,松本俊夫のシュルレアリスム=ドキュメンタリズムを特徴づける「オブジェ」から,大和屋の見解がいかに離反していったかを検証する。従来も映写機,ダッチワイフなど,大和屋が作品に頻用するオブジェは,彼の作品の大きな特徴として認識されてきた。これらは明らかに松本俊夫のオブジェ論の影響下にあるとされてきたが,実際は作家が「ものを見つめる」主体的な発見よりオブジェが各状況内に変貌していく「ダイナミズム」がそこに加味されることで,松本理論からの超越も図られている。第二節では,「凝視」における松本俊夫のアヴァンギャルド理論と大和屋の映画理論との相違性を分析することで,松本俊夫の理論の重点である作家の主体性からどのように大和屋が宣言したインパーソナルなエロダクション運動になり代わったかを明らかにし,大和屋の映画理論における作家の問題を解明する。第三節では,大和屋と同時代に書かれた松本俊夫の「状況」の概念と大和屋が多用する評論用語「地獄」との同質性を分析することで,両者の関連性をさらに確定する。特に,松本の状況論における早期の主体論からの転向が,「オブジェ」,「凝視」における大和屋の超越と同質化していったことを解明し,大和屋の理論の重要性を明らかにする。
著者
伊藤 佐紀
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.35-48, 2010-12-24

20世紀半ばから英米圏で興隆した分析美学は、「芸術とは何か」という問いを「芸術」概念の分析に主眼をおいた「あるものが芸術概念に適応されるための必要十分条件とは何か」という問いへと再定式化した。このような「芸術定義論」は現在も分析美学の中心的テーマの一つとされている。近年、スコットランドの美学者ベリス・ゴート(Berys Gaut)は、反本質主義を擁護する「芸術クラスター理論」を提唱した。ゴートは、「芸術は束概念であり、それゆえ定義することができない」と主張し、あるものが芸術概念に適応されるための条件として、複数の改訂可能な基準を選択的に結合させることによって芸術概念を特徴化する、選言的結合形式を持つ記述の束(the Cluster Account of Art : 以下CAAと略記)を提示する。こうした議論に対し、芸術概念の定義不可能性を主張する反本質主義擁護の立場に立ちながら、芸術であることの条件を挙示するゴートの主張は矛盾を包含しているという批判が集中した。本稿はこうした批判に対するゴートの応答を検討することによって、一見矛盾を包含するように思われるゴートの主張の目的を整合的にとらえるよう試み、理論の位置づけを明確化する。そのうえで、ゴートが提示したCAAの妥当性を検討する。まず芸術クラスター理論の前提と背景を確認し(第一節)、次いで基本的な概要(第二節)を確認する。さらに、ステッカーとデイヴィスによる「CAAは定義である」という批判を取り上げ、この批判にゴートがどのように応答しているか検討する(第三節)。ここでゴートがCAAは「高度に選言的で多様性に富む」定義であると譲歩しながらも、反本質主義者の立場に固執したゴートの意図を明確にするよう試みる。最後に、反本質主義を擁護しようとするゴートの主張は維持できず、CAAの妥当性は選言的定義として認められうることを示唆する(第四節)。
著者
番匠 美玖
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.107-137, 2019-12-20

本研究の目的は,武蔵御嶽神社の狼信仰に関わる人々が,武蔵御嶽神社で行われている狼信仰の対象であるオイヌ様と既に絶滅しているニホンオオカミとの関係を,どのようにとらえているのかを明らかにすることである。筆者は日本では神として崇められていたニホンオオカミが,種としては絶滅してしまっている,という状況に疑問を持った。ニホンオオカミと日本人との関係という点においては,かつては畑の害獣であるシカやイノシシを狩ってくれる存在として,農民はオオカミを盟友としてみていたとも言われている(Knight 2003)。しかし何故,現在ニホンオオカミは絶滅し,狼信仰は残っているのだろうか。 こうした状況を踏まえて本稿では,狼信仰の実態調査を通じて狼信仰の対象であるオイヌ様と,既に絶滅しているニホンオオカミとの関係に焦点を当てた。その結果,もともとは同一の存在であったニホンオオカミとオイヌ様だが,江戸時代後期から明治維新にかけての社会やニホンオオカミの変化の中で,人に及ぼす被害は「ニホンオオカミ」が,憑物落としや昔ながらの害獣除けは「オイヌ様」が行っているものと分岐させて捉えることで,矛盾したこの状況を説明しようとしたのではないか,という仮説が浮かび上がった。 第一章では動物に関する研究を人類学の分野で行う意義や,近年の人類学の流れについて概説する。第二章では動物としてのオオカミと,信仰の中での狼について世界的な視野を交えつつまとめる。第三章からは筆者がフィールドワークをした武蔵御嶽神社の概要と歴史について述べ,第四章ではフィールドワークについて報告している。第五章ではフィールドワークの分析を行い,本稿の問いに答えている。
著者
丹下 和彦
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.79, pp.77-93, 2004-02
著者
周 菲菲
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.111-135, 2013-12-20

この論文は,観光研究におけるアクター・ネットワーク論的なアプローチ の必然性と可能性を探求する。まず,従来の観光研究における全体論的な視 点の欠如とモノについての考察の不足といった問題点を指摘する。観光地対 観光者という二分法や,イメージ論のような表象分析の枠では,観光実践の 複雑性を十分に研究することができない。ここで,関係の生成変化に注目し, 人やモノ等の断片的な諸要素を,諸関係を構成する対称的なアクターと見て, それらのアクターが織り成すネットワークの動態の過程を把握するアク ター・ネットワーク論に注目する。そして,観光におけるモノの物質性と場 所の多元性の存在を論証し,観光者のような特定のアクターが観光ネット ワークの中で他のアクター(地域イメージ,モノ等)を翻訳し,自らの実践 に導く様相を,先行研究に基づいてまとめる。さらに,中国人の北海道観光 を例として,アクター・ネットワーク論に基づき,個的実践の共有化の過程 と,地域イメージのブラックボックス化の過程をまとめた。最後に,観光研 究へのアクター・ネットワーク論的アプローチを,地域の複数性を提示する 研究として提示してみた。
著者
平井 知香子
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.87, pp.113-133, 2008-03

あまり知られていないことであるが、サンドは子供の頃からデッサンや水彩画に親しみ、生涯に数多くの作品を残している。特に晩年の風景画「ダンドリット」は独特で、後のシュルレアリスムの画家たちが主張した「偶然」や「無意識」を連想させる。 夢想癖のあったサンドは子どもの頃、母が読む物語を聞くうちに緑色の火よけ衝立の上に様々な映像を見た。このことが後の芸術創造に影響した。また少女時代の作品に、「ロールシャッハテスト」そっくりの「折り紙による染み」がある。左右対称の「偶然」に生まれる図形に対する興味が、晩年の「ダンドリット」における「水に映った風景」へと発展した。 サンドは同時代の画家ドラクロワやコローなどとの交流を通じ近代絵画に対する興味を広げた。また孫娘への遺書として、愛する故郷ベリーの自然、19世紀の科学思想、進歩思想を背景にした童話集『祖母の物語』を書いた。彼女にとって絵画は物語と同様に、空想と現実を行き来する「夢のエクリチュール」であった。図を引用してサンドの絵画の先見性を明らかにした。
著者
山本 晶絵
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.31-53, 2017-11-29

アイヌの古老らに対する聴き取り調査資料を主な対象とし,資料中に記述されるフクロウ類の呼称について整理・検討を行った。これは,アイヌのシマフクロウ送りに関する調査・研究の基礎として位置づけられる。本稿では,シマフクロウ Ketupa blakistoni blakistoni およびエゾフクロウ Strix uralensis japonica に関する呼称を10に大別して地方ごとに整理し,資料中に見られる“フクロウ”に関する呼称が示す種について,考察を行った。シマフクロウを指す呼称としては,“コタンコロカムイ”が北海道の最も広い範囲で見られたほか,“カムイチカプ”および“フムフムカムイ”は石狩,胆振,日高地方を 中心に,“ニヤシコロカムイ”や“アノノカカムイ”は主に十勝,釧路地方においてのみ確認することができた。雅語であったと考えられる“カムイエカシ”および“モシリコロカムイ”は,前者は日高地方,後者は釧路(根釧)地方に偏って確認されたが,今後新たな事例が追加されることで,地域差が緩やかになる可能性が高いと考えている。エゾフクロウを指す呼称としては,“クンネレクカムイ”が最頻出であった。しかし,シマフクロウと比べると全体的に事例数そのものが少なく,さらに,“クンネレクカムイ”が重点的に見られたのは釧路地方のみで,石狩,日高地方では“イソサンケカムイ”および“ユクチカプカムイ”が比較的多く見られたことから,“クンネレクカムイ”が一般的な呼称であったとは,現段階では判断できかねるとした。フクロウに関する呼称については,シマフクロウとエゾフクロウ,および他のフクロウ類を指すものが混在している可能性が高い。記述の内容からシマフクロウを指すものと推測できる事例はあったが,エゾフクロウおよび他のフクロウ類を指すと考えられる呼称に関しては,判断材料となる情報が断片的であることから検討が困難であった。対象とする資料の範囲を広げ,新たな情報を追加することで,より詳細な検討が可能になるものと考えている。
著者
伊藤 道治
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.78, pp.93-108, 2003-08
著者
ウグル アルトゥン
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.67-84, 2012-12-26

日本は19世紀後半の開国以後,資本主義社会の一部となっていく過程にお いて,活発な情報収集活動が行われた。その一つとして当時のオスマン帝国 を訪れた記録も残されている。彼らが当時書いた自身の日記や紀行,新聞記 事,そして手紙でのやり取り等は今も数多く現存しており,これらが日本に おけるトルコに関する知識の基盤となったと推測される。よって,これらの 資料は日本とトルコの関係を検討する上で重要になると考えられる。 1911年にイスタンブールに留学に来た小林哲之助はトルコの政治的,軍事 的,外交上の事情を新聞や外務省にレポートを送るなどの形で伝え,日本に 於いてトルコに関する情報を創造する先行者の一人であった。小林が集めた 情報は当時のトルコの事情をあらゆる場面で取り上げる上でかなり重要だと 思われる。 外務省職員であった小林哲之助は,本国より奨学金を得てトルコに留学し た。彼は留学生という身分ながら,トルコ国内でその周辺諸国である東ヨー ロッパやバルカン半島の事情をレポートし,これらの情報は大阪朝日新聞の 鳥居素川と連絡を密にとりあった。鳥居素川の協力の下それらの情報を「ガ ラタ塔より」という書籍にてまとめている。その中には,小林哲之助がトル コに留学している間に勃発した伊土戦争,バルカン戦争や第一次世界大戦に ついての内容が詳細に記されており,当時の東ヨーロッパやバルカン半島の 様子を知る為にも貴重な資料だと言える。 本論文は二章で成り立てて,第一章では第一次世界大戦の前の日本とトル コの陥った状況や国際社会での一付けを考察する。こうやって歴史的背景を 構成しながら両国の世界システムにどのような影響を与えて,どういった役 割を果たしているかは論じる。 また,第二章では小林のトルコに関する観察を取り上げるとともに伊土戦 争から第一次世界大戦に至たるまでの時期を検討する。小林が書き残した書 籍「ガラタ塔より」,外務省のレポートや論文等を基に日本の外交官が見るト ルコのイメージと,このイメージの伝え方や伝達手段,トルコに於ける小林 の情報ネットワークに触れながら,小林の活動の目的や,日本のトルコ観に 与えた影響を取り上げる。