著者
セレーン ラオール 小田原 アキ子
出版者
Carcinological Society of Japan
雑誌
甲殻類の研究 (ISSN:24330108)
巻号頁・発行日
vol.4.5, pp.71-74, 1971 (Released:2017-09-08)

歴史と観察-酒井(1938)は,瀬戸(白浜)産,59×31のオスのnipponesisについて述べている。酒井に依れば,本種は次の点で大西洋産Portunus vocans A.M.E.と異なる。1)甲殻の後部が狭くなっている。2)前側縁歯は基部が幅広く先が尖っていない。3)心域は明確に稜線をなしていない。4)前鋼線は前方に向って強くカーブしている。5)鋏脚の長節には2棘でなく3棘ある。6)鋏脚長節の擦音器の棹は中途で途切れている。現在ある雌の標本は酒井(1938,1939)の観察引例と説明に一致する。鋏脚の長節の僅かな差異は恐らく標本の性差に依るのであろう。即ち(1)前縁において(第三の)後縁歯は酒井(1938)の標本よりも短かく,明かに未発達である。(2)発音器り桿は酒井の図ほど明確ではないが途切れている。前側縁腹面の発音桿が下眼窩の外葉の歯状縁に接して居り,又vocansについてラスバン(1930)が報告しているものと近似していることを記述する。酒井の図(1938)は,この点が相違している。窩眼外角は第一前外歯(酒井の第二,1938)の背面に位置する。即ち発音器の桿(本標本では27ある)の列は末端が下眼窩の外業の縁の5歯になっていることである。異る特徴の1の価値を正確にするために甲殻の後縁幅の長さを前側縁歯端間の最大計測値で比べてみた。この標本では甲殻の最大幅は後縁の幅の3.7倍である。それはnipponensisのType標本とは似ているが一方vocansではたった3.1倍でしかない。測定値はnipponensisのTypeについては酒井(1938)の図により,vocansについてはRathbun(1930)の図によった。ボルネオのPontianakからの標本記録はその地理的分布をかなり拡げた,そして本種は恐らく広くインド洋太平洋に分布しているという酒井(1938)の見解を確証した。私はエドモソソソ(1935)の標本即ちオアフ(ハワイ)採集の6×11の♂はnipponensisの幼型であるとする酒井(1938)の考えと一致している。タイプ標本の棲息環境は報告されていたい。現標本が77mの深さで採集された事は海岸近くにはなく又その記録の珍らしさを示している。
著者
ゴルドン イザベラ 小田原 アキ子
出版者
日本甲殻類学会
雑誌
甲殻類の研究 (ISSN:02873478)
巻号頁・発行日
no.4, pp.123-132, 1971-07

・ホワイト氏(彼のカタログは1847年及び1850年に出版された)が退職した頃は,甲殻類研究にはほとんど何も見るべきものがなかった。もっとも,トマス・ベルのコブシガニ(1885)が一連のモノグラフの先駆をなしていたし,また,C.スペンス・ベイトが端脚類(1862)のカタログを作るために雇われたりはしたが,マイヤースはホワイトの後を継いだ。彼は,ホワイトの多くのnominanudaを含む館内の収蔵品のうち,新しい種類や,よく知られていない種類を述べエビ,カニ類の数種について,また,シャコ類やヘラムシ科についても訂正した。それに加え,彼は多くの重要な採集物について報告し,ニュージーランドの有柄眼と無柄限甲殻類のカタログを出版した。この期間中,「収蔵品の鑑定ばかりでなく,記名,ラベルはり,分類などまで私ひとりの手でなしとげた」(1883年5月14日付書簡)ことを考えると,彼の組織的な仕事の量と質は驚くべきである。当時採集したものは,大体,生物の記録として新種のものになった。マイヤースは新種の名を脚註や他の種類のテキストの中でなにげなく紹介する傾向があったので,マイヤースの発見した新種を正確に数えることは容易ではない。しかし,彼は 大体のところ十脚類に32の属,亜属と260の種,亜種を加えた。そして甲殻類の目に4つの属と,72の種,あるいは変種をつけ加えた。名前は少し変ったかも知れないが,それらの大部分は今でも有効である。例えば最近,R.セレン博士によって編纂された西インド洋の短尾類の暫定的なリスト(未出版)の中には,143のマイヤースの発見した種類が含まれており,そのうち名前の変ったものは20しかない。(十脚類を含むマイヤースの文献のリストについては,Balss&Gruner.1961:1898と1989〜1991を参照されたい)ところで,彼の主要報告はどうであったろうか。甲殻類のサウス・ケンジングトンへの移転がマイヤースにとって大変厄介な時にやってきた。1883年5月14日付のギュンターへの手紙で,彼はその移転が,「軍艦アラートによって採集された甲殻類に関する報告の準備によって必然的に延びるチャレンジャーの短尾類の予備調査の完了まで延期される」ことを暗示した。ジョン・ミュラーは彼の報告書の長さと,それを図で説明するのに必要な図版の数によって評価されたいと望んでいた。しかし,マイヤースはこの望みをかなえてやらなかった。というのは彼は異尾類のほうにまわされることになっていたパロワとまだ討議しなければならなかったし,また,図版は10から15で十分であると考えたからである。ミュラーは1883年5月18日にこう書いている。「あなたの時間の多くが,博物館の移転に費やされてしまったのは残念です。しかしながら,せいぜい二月以内に,あなたが我々によい報告書をお与え下さることを望んでおります」。甲殻類は全部6月末までに移されたが収蔵品と書籍を整理するのに,数か月かかったにちがいない。つづく18か月をマイヤースは,彼の博物館の仕事が許すがぎり,チャレンジャー報告に費やした。しかし1885年の終りまで彼は病気がちで,健康をかたり害していたので11月に辞任した。チャレンジャーの原稿は,1886年4月1日から11月26日までの間に分けて,ミュラーのところへ送られ,マイヤースは健康の続く限り,それを校正した。彼は6月26日付のミュラーの手紙を読んで確認したに違いない。「ここ数年間,私はあなたの報告書をていねいに読んでおります。大変立派な,重要なものであり,今あなたのお送り下さった原稿は,大変明確でよく準備されてありますので,出版が完了するまで,大して,あなたにお手数をおかけしなくて済むと思います。あなたの名を高める報告書になるにちがいありません。すべての生物学者に,科学への最高の貢献であるとみなされるでしょう」。マイヤースはしばしばこの博物館で働いていたようである。その時彼はかなり元気で,乾燥標本を新しい標本棚に並べかえたりしていた。(ギュソター宛の書簡,1887年7月30日)この日以来,1892年1月19日の葉書しか残っていない。これはコーンウェルの住所から発信したもので,かつての同僚にクリスマスの挨拶に対する感謝をしたためたものである(偶然にも,ヘンリー・マイヤースが1882年から1895年までこの博物館の職員であり,また,1926年から1939年まで大英博物館の理事をつとめている)。E.J.マイヤースは終生,動物学会員及びロンドンのリンネ学会員であった。日本の甲殻類に関するマイヤースの業績 日本の甲殻類に関する彼の重要な文献は,韓国と日本の海を7年間調査したことのある英国海軍のセント・ジョン海軍大佐によって集められた資料に関する1897年の報告である。資料の多くはドレッジで採集された深海のものである。それゆえ,デ・ハーンによってよく説明されている通常海岸に住む種類はほとんど含まれていなかった。この地域の深海の甲殻類については,アメリカ合衆国,北太平洋調査探検隊(1853〜56)に加わった動物学者スティンプソンがフィラデルフィア科学学士院委員会で,多数の属や種の特性についての短いラテン語の本を出版するまでは,比較的わずかしか知られていなかった。しかも,短尾類と異尾類の説明とさし絵は,かなり後まで出版されなかった。(スティンプソン1907)しかしながら,マイヤースは,セント・ジョンの資料と,スティンプソンによって命名され数年前スミソニアン協会から大英博物館に寄贈された日本近海で採れた標本とを比べることができた。提供された64種類のうち,26種類は明らかに新種であった。他の7種には彼は種名をつけなかった。彼はParatymolus, Pleistacantha, Pomatocheles, Heterocumaなどの属名を確立し,日本の動物相の関連について述べた。彼は後日Amphipoda, Isopoda, Cirripedia Pycnogonidaなどに関する出版をするつもりであったが,達成しなかった。マイヤースの出版物の多くは,さし絵を画家に石版刷りにさせているが,この図版のように石版工の名だけしか記されていないものは,恐らく下絵はマイヤース自身によるものであろう。1881年12月17日,ナポリの動物学研究所のピー・メイヤー博士がマイヤース宛ての書簡で,彼はあるアメリカ人,ホイットマン博士によって彼に送られた日本のエビの標本をいくつか送るつもりであると述べている。このエビは東京の近くの淡水池で採集された。メイヤーの手紙には,実際に誰がそれを採取したのか書いてない。この標本は成長した大きさよりせいぜい5mmしか小さくなかったのであるが,かなり小さかった。しかし私は,ホイットマン博士個人を通じて,この標本を送ったのは石川博士であるに違いないと思っている。というのは石川博士は,この種類を増やすことを研究していて,専門家にそれを名づけてもらいたがっていたからである。このことは,Atyaephra? Compressa De Haan(1882.マイヤース)に関するメモを受けとった時に石川博士が書いていることに一致するであろう。1882年6月12日に石川はこう書いている。「私があなたにお送りした標本は,皆小さいので,今度はもっと良い大きた標本をお送りしたいと思っているのですがご存じのとおり,アルコール標本を海外に郵送することは,我々にとって大変困難なことなのです。」それ故,大英博物館の収蔵品には,ナポリからメイヤー氏によって送られたこれらの標本(登録番号82.2)しかないのである。このエビは,久保博士によりParatya compressa improvisa Kempに属するものとされている。(1938.東京水産大学報告.33(1):71).英国軍艦チャレンジャーは,再び日本の海で採集し,1875年5月12日から6月17日までの間に獲得されたカニはマイヤースのリストに載っている。2種類だけ新種であることが分った。即ちCharybdis bimaculata(Miers)と深海産のEthusa(Ethusina)challengeri(Miers)である。又,マイヤースがよく述べていた西インド洋産の多くは,後に,日本の動物相に属することが分った。
著者
セレーン ラオール 小田原 アキ子
出版者
日本甲殻類学会
雑誌
甲殻類の研究 (ISSN:02873478)
巻号頁・発行日
no.4, pp.71-74, 1971-07

歴史と観察-酒井(1938)は,瀬戸(白浜)産,59×31のオスのnipponesisについて述べている。酒井に依れば,本種は次の点で大西洋産Portunus vocans A.M.E.と異なる。1)甲殻の後部が狭くなっている。2)前側縁歯は基部が幅広く先が尖っていない。3)心域は明確に稜線をなしていない。4)前鋼線は前方に向って強くカーブしている。5)鋏脚の長節には2棘でなく3棘ある。6)鋏脚長節の擦音器の棹は中途で途切れている。現在ある雌の標本は酒井(1938,1939)の観察引例と説明に一致する。鋏脚の長節の僅かな差異は恐らく標本の性差に依るのであろう。即ち(1)前縁において(第三の)後縁歯は酒井(1938)の標本よりも短かく,明かに未発達である。(2)発音器り桿は酒井の図ほど明確ではないが途切れている。前側縁腹面の発音桿が下眼窩の外葉の歯状縁に接して居り,又vocansについてラスバン(1930)が報告しているものと近似していることを記述する。酒井の図(1938)は,この点が相違している。窩眼外角は第一前外歯(酒井の第二,1938)の背面に位置する。即ち発音器の桿(本標本では27ある)の列は末端が下眼窩の外業の縁の5歯になっていることである。異る特徴の1の価値を正確にするために甲殻の後縁幅の長さを前側縁歯端間の最大計測値で比べてみた。この標本では甲殻の最大幅は後縁の幅の3.7倍である。それはnipponensisのType標本とは似ているが一方vocansではたった3.1倍でしかない。測定値はnipponensisのTypeについては酒井(1938)の図により,vocansについてはRathbun(1930)の図によった。ボルネオのPontianakからの標本記録はその地理的分布をかなり拡げた,そして本種は恐らく広くインド洋太平洋に分布しているという酒井(1938)の見解を確証した。私はエドモソソソ(1935)の標本即ちオアフ(ハワイ)採集の6×11の♂はnipponensisの幼型であるとする酒井(1938)の考えと一致している。タイプ標本の棲息環境は報告されていたい。現標本が77mの深さで採集された事は海岸近くにはなく又その記録の珍らしさを示している。