著者
小谷野 由紀 北畑 裕之 Alexander S. Mikhailov
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.74, no.9, pp.627-632, 2019-09-05 (Released:2020-03-10)
参考文献数
14

生体内には様々な機能を担うタンパク質が多数存在する.それらタンパク質はアデノシン三リン酸などの化学エネルギーを消費して活性化し,その形状を変化させることで機能を発現する.近年,タンパク質の活性化によって生体内の拡散が促進されることを示唆する実験結果が報告された.生体内に限らず,人工のマイクロ流路内での酵素・基質反応系においても拡散の促進を示唆する実験結果が得られた.そのため,ミクロな素子の形状変化が,直接的に拡散の促進を引き起こしている可能性が高いことがわかってきた.タンパク質の活性による拡散促進現象を説明するため,タンパク質のような形状が変化する素子と拡散現象を結びつける数理的な枠組みが,MikhailovとKapralによって提案された.彼らは,生体膜や細胞質をそれぞれ2次元・3次元ストークス流体,活性タンパク質の形状変化を流れを引き起こす力の双極子とみなし,流れに乗って動くトレーサー粒子の拡散挙動を記述する数理モデルを構築した.この数理的な枠組みにおいては,活性タンパク質の形状変化に対応する力の双極子の大きさや配向方向を確率的に与えているため,生じる流体場も確率的であり,さらに流体場に従って動くトレーサー粒子の時間発展も確率的である.トレーサー粒子の統計的な振る舞いを調べるために,トレーサー粒子の位置の時間発展についてフォッカー・プランク方程式,すなわち,トレーサー粒子の確率分布の時間発展方程式が導出された.フォッカー・プランク方程式にはトレーサー粒子の拡散挙動を表す項(拡散項)が含まれているため,拡散項の係数(拡散係数)を調べることにより,拡散の促進が起きうるのか議論することが可能となる.実際に,活性タンパク質が一様に分布している場合について拡散係数を調べると,通常の熱拡散に加え,活性タンパク質による実効的な拡散の促進が起きることが確認できた.フォッカー・プランク方程式には拡散項の他に,トレーサー粒子の一方向的な移動を表す移流項が含まれる.この移流項は,活性タンパク質の分布が一様でないときに現れる.生体内には細胞膜上の脂質ラフトといった,タンパク質が空間的に局在する構造の存在が知られている.そのようなタンパク質の局在構造によって引き起こされる移流について,提案されている数理モデルを用いて考察すると,トレーサー粒子はタンパク質の局在した領域に集まりやすい,という非自明な傾向があることもわかってきた.活性タンパク質の形状変化に対応する力の双極子の大きさや配向方向は,長時間平均がゼロ,かつ,時間的な相関を持たないよう確率的に与えているため,一見,流体中の流れに従って動くトレーサー粒子は方向性のある移動をし得ないように思える.今回のモデルで移流現象が見られる理由は,多数の活性タンパク質の協同現象を考えているためである.最後に,今回紹介したモデルは,拡散の促進現象を表すことができるという点で実験と整合が取れている.しかし,移流によってトレーサー粒子が活性タンパク質の局在した領域に集まる現象は実験的に未確認であり,今後の実験結果が期待される.