著者
小野 絵里華
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
no.8, pp.233-249, 2010

本稿では、「第三の新人」作家、安岡章太郎(1920-)の文壇デビュー作「ガラスの靴」(1951年)の作品分析をおこなう。「第三の新人」という呼称が、先の「戦後派」たちの作家に比べ、難解さ・思想性・政治性がないということをさして使われたように、通常、本作品は、占領下という時代状況にも関わらず、私的世界が描かれた、どこか童話的な透明な物語として読まれてきた。しかし、本稿の分析で分かるように、そこには、確固とした、敗戦という現実へのまなざしがあるのであり、主人公は、新しいアメリカという<権威>=「第二の父」のもとで、敗戦国民という屈辱感を全面的に抱いていることが分かる。そこには、江藤淳が1970年の論考で、対米依存型の日本社会を「「ごっこ」の世界」として捉えた事態が、まさに<私>のレベルで演じられているといえる。
著者
小野 絵里華
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
no.10, pp.161-176, 2012

本稿では2004年に発表された多和田葉子『旅をする裸の眼』のテクスト分析を行なう。その際、ベトナムからヨーロッパにやってきた主人公が見ているカトリーヌ・ドヌーヴ主演映画との関連を分析する。特に、フランス領インドシナを描いた映画『インドシナ』(1992年)を見ながら、植民地主義を批判しているはずの主人公が幼児的に退行し、映画のなかのドヌーヴという西洋植民者側の<母>に積極的に従属しようとする在り方は、映画鑑賞におけるマゾヒスティックな欲望と相まって見逃してはならない点である。そこには、映画『インドシナ』の批評にあるように、植民地の記憶を「集合的ファンタジー」として記憶させる植民者側の戦略があったかもしれず、主人公はそれにはまってしまったことになる。ホーチミンを崇拝している主人公は、パリで不法滞在しながら、一方では資本主義を批判し、一方ではドヌーヴに表象される西洋的身体に魅了されるという矛盾のなかを生きている。ベルリンの壁崩壊後の世界で、もはやどこにも居場所がない主人公は、最後には「時計の針」で映画狂の自分自身の目を突いてしまおうとする。それは「共産主義/資本主義」「西洋/東洋」といった二項対立に抵抗し、異空間へと越境するための残された唯一の手段であった。
著者
小野 絵里華
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.161-176, 2012-03-01

本稿では2004年に発表された多和田葉子『旅をする裸の眼』のテクスト分析を行なう。その際、ベトナムからヨーロッパにやってきた主人公が見ているカトリーヌ・ドヌーヴ主演映画との関連を分析する。特に、フランス領インドシナを描いた映画『インドシナ』(1992年)を見ながら、植民地主義を批判しているはずの主人公が幼児的に退行し、映画のなかのドヌーヴという西洋植民者側の&lt;母&gt;に積極的に従属しようとする在り方は、映画鑑賞におけるマゾヒスティックな欲望と相まって見逃してはならない点である。そこには、映画『インドシナ』の批評にあるように、植民地の記憶を「集合的ファンタジー」として記憶させる植民者側の戦略があったかもしれず、主人公はそれにはまってしまったことになる。ホーチミンを崇拝している主人公は、パリで不法滞在しながら、一方では資本主義を批判し、一方ではドヌーヴに表象される西洋的身体に魅了されるという矛盾のなかを生きている。ベルリンの壁崩壊後の世界で、もはやどこにも居場所がない主人公は、最後には「時計の針」で映画狂の自分自身の目を突いてしまおうとする。それは「共産主義/資本主義」「西洋/東洋」といった二項対立に抵抗し、異空間へと越境するための残された唯一の手段であった。
著者
小野 絵里華
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.233-249, 2010-03-01

本稿では、「第三の新人」作家、安岡章太郎(1920-)の文壇デビュー作「ガラスの靴」(1951年)の作品分析をおこなう。「第三の新人」という呼称が、先の「戦後派」たちの作家に比べ、難解さ・思想性・政治性がないということをさして使われたように、通常、本作品は、占領下という時代状況にも関わらず、私的世界が描かれた、どこか童話的な透明な物語として読まれてきた。しかし、本稿の分析で分かるように、そこには、確固とした、敗戦という現実へのまなざしがあるのであり、主人公は、新しいアメリカという&lt;権威&gt;=「第二の父」のもとで、敗戦国民という屈辱感を全面的に抱いていることが分かる。そこには、江藤淳が1970年の論考で、対米依存型の日本社会を「「ごっこ」の世界」として捉えた事態が、まさに&lt;私&gt;のレベルで演じられているといえる。