著者
阪口 慧
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.19-35, 2013-03-01

本稿は日本語形容詞「やばい」の意味・機能の拡張を考察対象とし、形容詞の否定的意味から肯定的意味及びその他の意味・機能への拡張のメカニズムを考察する。日本語形容詞「やばい」は否定的な意味を本来持ち、現在では肯定的意味、否定も肯定も担わない意味(絶対値的意味)及び強調詞として使われる。それらの意味・機能の異なりは、スケールドメインにおける概念化の差異によると考える。「やばい」のそれぞれの意味に対応するスキーマとして、肯定的スキーマ、否定的スキーマ、絶対値的スキーマを措定し、それぞれのスキーマ間の拡張関係を認知言語学の観点から考察する。絶対値的スキーマと便宜的に名付けたものは「やばい」の否定的スキーマから肯定的スキーマへの拡張、及び形容詞から強調詞(副詞)用法への拡張を可能にする上位スキーマ的節点であると主張する。また絶対値性は「やばい」の意味拡張を説明するためだけに持ち出した概念ではなく、肯定・否定性を持つ語の意味拡張及び機能拡張の分析に有効な概念であることも加えて主張する。
著者
阪口 慧
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
no.11, pp.19-35, 2013

本稿は日本語形容詞「やばい」の意味・機能の拡張を考察対象とし、形容詞の否定的意味から肯定的意味及びその他の意味・機能への拡張のメカニズムを考察する。日本語形容詞「やばい」は否定的な意味を本来持ち、現在では肯定的意味、否定も肯定も担わない意味(絶対値的意味)及び強調詞として使われる。それらの意味・機能の異なりは、スケールドメインにおける概念化の差異によると考える。「やばい」のそれぞれの意味に対応するスキーマとして、肯定的スキーマ、否定的スキーマ、絶対値的スキーマを措定し、それぞれのスキーマ間の拡張関係を認知言語学の観点から考察する。絶対値的スキーマと便宜的に名付けたものは「やばい」の否定的スキーマから肯定的スキーマへの拡張、及び形容詞から強調詞(副詞)用法への拡張を可能にする上位スキーマ的節点であると主張する。また絶対値性は「やばい」の意味拡張を説明するためだけに持ち出した概念ではなく、肯定・否定性を持つ語の意味拡張及び機能拡張の分析に有効な概念であることも加えて主張する。
著者
斎藤 浩一
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.81-97, 2011-03-01

We propose a study of EFL School Grammar in Japan by retracing its history. Examining various grammar books used from 1850s to the end of 1890s, this paper discovers that there are several grammatical concepts which are thought to have originated in Japan: Causative Verbs, Verbs of Perception, Complete/Partial Negation, Formal Subject/Object, Subjunctive Past Perfect, Sense-Subject and Participial Construction. By analyzing the historical process in which these new items were created and systematized, the paper unveils the grammarians'uniform and consistent orientation toward linguistic meaning. This finding enables us to see partly what the whole grammatical system is truly about.
著者
戸丸 優作
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.215-231, 2014-03-01

Mercier et Carnier est le récit d'un voyage que font les protagonistes sans fixer de destination, même en retournant plusieurs fois au lieu de leur départ. Les lecteurs ont part à leur voyage et sont finalement impliqués dans ce mouvement circulaire qui semble n'avoir pas de sortie. Cependant, une question comme la suivante nous donne la sortie : Qui est ce « je » qui nous raconte cette histoire de Mercier et Camier ? Afm d'identifier ce « je » narrateur, nous devons analyser sa stratégie de la narration et sa relation avec les protagonistes, et cette considération nous conduit à comparer Mercier et Carnier avec les autres textes de Beckett tels que : Watt, La Fin, Premier Amour. Cette comparaison de leurs structures narratives révèle que Sam et Watt ne sont pas des doubles l'un et l'autre, et que l'état du « je » narrateur et Sam y ressemble à celui d'un fantôme. En conséquence, c'est Beckett lui-même qui narre la partie fmale de Mercier et Carnier après que le « je » disparaît, et ce « je » et Sam se transformerait en le narrateur héros. Cette progression représente la difficulté pour Beckett à recourir à la narration à la première personne, et l'usage de français lui a permis une recherche de la manière de raconter.
著者
Terasawa Takunori
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
no.9, pp.117-133, 2011

本研究の目的は、日本のビジネス言説にしばしば見られる、「英語ができると収入が増える」という議論を検証することである。この考え方は、英語力の有無により労働の質・量が左右されると想定している点で、人的資本論の枠組みで捉えることが可能であり、本論文もこの枠組みに基づいた分析を行う。先行研究の諸問題(1.日本全体が視野に入っていない、2.労働市場が一枚岩として捉えられており、「人的資本」が機能する文脈/しない文脈の存在の可能性が念頭におかれていない、3.「大学歴」という第三の変数によって、英語力と賃金が同時に影響を受けることに対する配慮がない)を踏まえ、日本の労働市場のどの文脈で、英語が「人的資本」として働くかを労働経済学の計量モデルに基づき検討する。その結果、多くの文脈において、英語力が「人的資本」として働いているという明確な証拠は得られず、むしろ、両者の関係は、大学歴等による疑似相関の可能性が高いことが示唆された。最後に、考察では、こうした結果にもかかわらず、「人的資本としての英語力」言説が流布する背景を議論した。
著者
瀬崎 圭二
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
no.3, pp.99-112, 2005

資本主義の成熟、交通、情報網の拡張といった外部的環境の変容の中、明治30年代から流行を紹介する雑誌が続々と刊行されると共に、流行を知の対象として位置付け、分析していくような言説が流通していくことになる。そうした中、藤井健治郎の「流行の意義性質及び其伝播に就いて」(『東亜之光』明治43・2)や、三越の流行会会員であった高島平三郎の「流行の原理」(『みつこしタイムス』明治43・7)は、ガブリエル・タルドを初めとした欧米の社会学、心理学の理論を基盤に、科学的に現象としての流行を捉えようとした。やはり流行会の会員であった森鷗外の小説「流行」(『三越』明治44・7)は、一人の男が用いていく事物が全て流行のものとなっていくことを「己」の「夢」として描き出しているが、この小説は、事物の商品化に際した商人や使用人たちの<夢>を表象すると共に、同時代の流行論が展開した覇権への欲望という<夢>を吸収するところに成立している。流行を知の対象とするこうした言説によってその実定性は確保され、まさに1910年前後、単なる一過性のはやりの現象である流行から、常に<新しさ>の誕生と消滅を繰り返す近代の流行、すなわち流行へのシフトチェンジが生じるのである。
著者
佐原 怜
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.221-236, 2012-03-01

L'objectif de cet article est de mettre en lumière le principe de l'intelligence chez Alfred Jarry en s'appuyant sur les discours de psychologues de l'époque et sur ceux de philosophes épistémologiques. Dès les premiers écrits de Jarry, le concept d'atomisme s'impose sous la figure du sable, qui symbolise chez lui les mots, la mémoire et les idées. La psychologie empiriste, qui se propageait largement à l'époque en France, se base sur le concept d'atomisme, et l'associationnisme en fait partie. Selon cette théorie, tous les éléments mentaux s'associent de façon immanente, sans travail sélectif de l'intelligence. L'association des atomes, selon Jarry, tient du hasard. Dans son roman postérieur, la figure d'atome réapparaît, cette fois-ci soumise aux lois physiques. Le héros du roman sort de l'espace-temps afin d'en reconstruire l'unité. Cette action peut s'expliquer au regard de la pensée de Kant, selon laquelle le libre arbitre est rendu possible lorsque le moi transcende le temps et le monde phénoménal. Ainsi c'est dans cette même dimension que l'intelligence selon Jarry peut sélectionner les phénomènes accidentels pour les intégrer à sa création.
著者
小野 絵里華
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
no.8, pp.233-249, 2010

本稿では、「第三の新人」作家、安岡章太郎(1920-)の文壇デビュー作「ガラスの靴」(1951年)の作品分析をおこなう。「第三の新人」という呼称が、先の「戦後派」たちの作家に比べ、難解さ・思想性・政治性がないということをさして使われたように、通常、本作品は、占領下という時代状況にも関わらず、私的世界が描かれた、どこか童話的な透明な物語として読まれてきた。しかし、本稿の分析で分かるように、そこには、確固とした、敗戦という現実へのまなざしがあるのであり、主人公は、新しいアメリカという<権威>=「第二の父」のもとで、敗戦国民という屈辱感を全面的に抱いていることが分かる。そこには、江藤淳が1970年の論考で、対米依存型の日本社会を「「ごっこ」の世界」として捉えた事態が、まさに<私>のレベルで演じられているといえる。
著者
田畑 きよみ
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.91-107, 2012-03-01

The objective of this study is to investigate the situations of English teaching at the early stage of the Meiji era, analyzing existent historical materials. Although only a few parts of the books we employ in this thesis describe English education for pupils, I gleaned the fragments to certify the existence of English education for the primary school students. The traits common to the schools which have evidence of English education, discovered through exploration of the circumstances of school foundations are as follows: 1) The schools were established in the early period of the Meiji era. 2) The contents of the class were determined by the textbooks available, rather than by the predetermined curricula. 3) The schools received financial aid for their administration. 4) The schools were contributed to by some intellectuals who devoted themselves to establishing the schools. In conclusion, taking all the various factors into consideration, it is evident that a number of public primary schools did indeed teach Japanese pupils the English language at the beginning of the Meiji Era, and that the styles and contents of the classes were varied according to the situation.
著者
柾木 貴之
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.67-84, 2015-03-01

本研究は1901 年から戦前までを対象に、「国語教育と英語教育の連携」をめぐる状況について明らかにすることを目的とする。2000 年以降、「連携」に関する議論が高まり、各分野から研究が進んでいるが、ほとんど研究が進んでいないのが歴史的研究である。とくに戦前にどの程度、「連携」が行われていたかについてはほとんど明らかになっていない。このような状況の下、今回、国語教育と英語教育の両方の資料について文献調査を行った結果、明らかになったのは、(1)戦前において、国語教育と英語教育は言語の形式面の指導において連携すべきであるという提言が複数あったこと、(2)実際、国語教育と英語教育は形式面の指導で共通した部分があったこと、(3)しかしながら、内容面の目標の相違が国語関係者と英語関係者の意識に隔たりを生んでいたこと、の三点である。この意識の隔たりが戦前に「連携」が実現しなかった一因と考えられる。
著者
長沼 美香子
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.121-128, 2015-03-01

本稿の目的は、明治初期の国家的プロジェクトとして翻訳出版された文部省『百科全書』(Chambers’s Information for the People のほぼ全訳)における「宗教」に関するテクスト群をそのコンテクストに定位して、翻訳研究の視角から読解することにある。そもそもreligion はどのように訳出されていたのか。「religion = 宗教」という翻訳等価の成立過程は、明治政府が欲望した近代国家体制といかに切り結ぶのか。近代日本の「宗教」をめぐる記憶を辿りながら、religion を翻訳する行為によって誕生した「宗教」が引き受けた二面性と、この翻訳語が同時に非「宗教」という領域を創出した帰結を翻訳テクストに問い直し、その根源に潜む翻訳語の宿命を近代日本語の出来事として探究する。
著者
寺沢 拓敬
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.159-175, 2013-03-01

本研究の目的は、戦後日本社会における英語の位置づけを、世論調査の分析によって、客観的に明らかにすることである。このテーマは、従来から注目を集めてきたもので、先行研究も多数あるが、日本社会全体を考慮に入れた客観的な検討は乏しい。こうした問題に対処するため、過去に行われた世論調査を収集し、それらの分析・経年比較を行った。収集の結果、英語に関する設問を含む、多数の世論調査が見つかったが、紙幅の関係上、本研究では、英語志向の一指標となる2設問 ―すなわち「現在の英語学習」「英語学習意欲」― に焦点化し、とくにその歴史的変化とジェンダーとの関係性を主たる検討対象とした。分析の結果、日本社会「全体」を覆うかのように言われてきた「英語ブーム」や、「女性は本質的に英語志向」のような一枚岩的なジェンダー観・英語観には、根拠が薄いことがわかった。その上で、日本社会の英語志向には、従来言われてきたものよりも、いっそう複雑な歴史的推移・ジェンダー差が見出せることを明らかにした。
著者
岩川 ありさ
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.191-203, 2013-03-01

本論文では、林京子「祭りの場」(「群像」一九七五年六月号)と「長い時間をかけた人間の経験」(「群像」一九九九年一〇月号)という二つのテクストをつなぎ、一九四五年八月九日に長崎で被爆したという出来事の記憶が、時を経て、いかに想起され、いかに語り直されるのかについて、精神的外傷と記憶との関わりから論じる。一九七五年に発表された「祭りの場」の冒頭はアメリカの科学者たちが寄せた「降伏勧告書」の引用からはじまるが、「祭りの場」においてはこの部分に大幅な省略がなされている。けれども、一九九九年になって発表された「長い時間をかけた人間の経験」においては、省略部分が復元して記されている。核時代において、いかにして省略部分が重要な意味を持って書き添えられたのか。林京子のふたつのテクストを対象にして、近年のジュディス・バトラーの議論を参照しながら、核時代における生の条件の編成のされかたについて検討することで、他者として規定してきた人々の生がまっとうされる未来の可能性について展望したい。
著者
安 天
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.143-159, 2012-03-01

日本の批評における「他者」概念は、江藤淳の『夏目漱石』でその誕生を目撃することができる。本稿の目的は『夏目漱石』の論理構造の解明を通して -- (1)テクストのなかで「他者」概念が同書の他の主な概念とどのような関係を結んでおり、全体的な関係の網目のなかでどこに位置づけられているのかをあらわにすること。(2)テクストにおける論理展開に注目し、その展開から江藤の思考に見られる特徴を浮き彫りにすること -- この二点である。結論として、江藤は人の価値観を形づくり、世界を眺める視点を構成していく観念として「近代」「小説」「士君子的知識人」「自然」などを取り上げ、これらを「現実」を覆い隠し、「現実」を不可視にする虚構、言い換えれば認識を構成的に制限する知的装置として捉える一方、これらを取り除いた末にたどり着いた「現実」の地平において現れた不透明で、輪郭も定まらず、理解を拒む他人を、「他者」という言葉で概念化した -- という読解を提示する。
著者
堀井 一摩
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
no.14, pp.225-240, 2016

本稿は、泉鏡花の「高野聖」における不気味な他者たちの表象が日清日露戦間期の日本社会においてどのような意味を担っていたのかという問題を考察する。まず「高野聖」に書き込まれた近代性の記号、すなわち地図、徴兵制、衛生学の歴史性を追跡し、それらが近代的国民軍の要請によって整備されたものであることを確認する。そのうえで、宗朝と、富山の薬売り・次郎との分身関係を分析することを通じて、「高野聖」が、不気味な動物的他者が表徴する脱国民的身体への憧憬を保存していたという読解を提示する。最後に、孤家の女が統治する「代がはり」の世界の意味を考察し、壮健な男をもはや戦うことのできない動物に変じる女の魔力が、国民国家にとってサブヴァーシヴな力をもつことを明らかにする。鏡花は、このような異界を仮構することで、対外戦争へと向かっていく近代日本の国民の生きる空間を逆照射し、それに異議を申し立てるようなヘテロトピアを描いている。
著者
平井 裕香
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
no.11, pp.241-257, 2013

『雪国』の地の文は、女を性的或は美的な対象の位置に押し込める一方で、自己を唯一の主体として特権化しようとする欲望を作中人物・島村と共有しながら、このホモソーシャルな共犯関係を「島村」という三人称の符牒により隠蔽する。そのような志向性を持つ語り手・島村の言葉に対して〈他者の言葉〉としてあると言える駒子・葉子の台詞は、地の文の言表行為の主体と主たる言表の主体たる島村の特異な関係ゆえに、語られる物語と語ることばの水準の差異を越えて地の文を逆照射する。二つの異質なコード・文脈の間でことばがふるえるとき、そしてそのふるえがテクストの他の位置にある同一語を介してテクスト全体に及ぶとき、語り手・島村のコード・文脈の偏向及びその背後にある志向性が露になる。『雪国』というテクストは、〈他者の言葉〉がこのように語りを脱臼させる過程をこそ提示している。以上のような複数の言葉の相互作用が織りなす動態をテクストの文体と呼び、作中人物の台詞を射程に含めた議論をこそテクストの文体論的分析と呼ぶならば、それは川端テクスト群及びそれを囲い込む言説の再検討において大きな方法論的意義を有すだろう。
著者
逆井 聡人
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.85-102, 2015-03-01

本稿は、アジア太平洋戦争直後の東京における戦災復興を考察する。本稿が対象とするのは、都市計画そのものや政府の政策等ではなく、戦災復興期の東京を描いた二本の映画である。一つは『20 年後の東京』という東京都都市計画課が作成したPR 映画であり、もう一つは黒澤明が監督した『野良犬』である。東京の戦災復興計画を宣伝する『20 年後の東京』がその計画の思想を伝える際に用いるレトリックを分析し、その背後にある植民地都市経営の経験とそれを「民主的」という言葉で覆い隠し、計画の正当性を偽装する態度を読み取る。また計画の障害として語られる闇市を取り上げ、その復興期における役割を評価した上で映画の言説との齟齬を明らかにする。そして、その闇市を映画の主要な空間として取り込んだ『野良犬』が、その空間にいかなる役割を担わせているかを主人公の復員兵・村上を通して考察する。本稿は都市を語る上で帝国主義の過去を忘却しようとする言説に対して、抗う拠点としての闇市という空間を位置付けることを目的とする。
著者
堀井 一摩
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
no.12, pp.283-297, 2014

本稿の目的は、幸徳秋水のキリスト教批評『基督抹殺論』(丙午出版社、1911 年)と森鷗外の短編小説「かのやうに」(『中央公論』1912 年1 月)を、近代史学と皇国史観との歴史的緊張関係の中に位置づけて読み直すことである。草創期の日本近代史学を担った重野安繹や久米邦武等の「抹殺論」と呼ばれる考証史学の実践とこの二つのテクストとのインターテクスト性を浮かび上がらせる作業を通じて、南北朝正閏論争で顕在化した実証史学の弾圧に対して、この二つのテクストがいかにして「抹殺論」を甦らせようとしているかを分析する。その過程で、『基督抹殺論』と「かのやうに」の応答関係とともに、「抹殺論」甦生の試みが閉塞的な同時代に対してもつラディカルな批評性を明らかにした。
著者
寺沢 拓敬
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
no.12, pp.91-107, 2014

本稿の目的は、英語以外の異言語に対する「日本人」の態度を計量的に明らかにすることで、日本社会の多言語化に関する議論の基礎資料とすることである。主たる分析対象は、「日本版総合的社会調査」2006年版の「関心のある英語以外の言語」設問である。同調査の標本は、無作為抽出で採られているため、結果を「日本人」全体に一般化することが可能である。分析の結果、明らかになった点は、(1)調査時点で、「日本人」の約8割が英語以外の異言語の学習に何らかの関心を示したが、その関心は、日本社会の多言語化状況を必ずしも反映していない、(2)ジェンダー・年齢・教育レベルによって関心のある異言語が大きく異なった、(3)生活場面における外国人との接触機会は、異言語への関心を生んだが、頻繁な接触はむしろ異言語への関心を低めた、(4)英語力を持っていること自体は、英語以外の異言語学習に対する関心にはつながらないが、英語の使用・学習意欲は関心を高めた、という点である。以上の結果をもとに、「日本人」の異言語に対する態度の特徴について議論した。