著者
尾上 葉子
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.22, pp.19-36, 2004

糖餅行とは、清代の北京に存在した菓子屋および菓子職人のギルドのことである。糖餅行は外城の広渠門内にあった馬神廟にギルドホールを置き、雷祖を自分たちの主祭神として祀り、活動をおこなっていた。奈良史学第七号(一九八九)に掲載させていただいた論文では、糖餅行を取りあげて、その起源・祭祀・行規・衰退、および馬神廟の起源の各項目に分けて述べるとともに、北京の菓子屋と菓子、そして菓子と北京の人々とのかかわりについても触れている。今回の小論では、前回詳しく論じることができなかった、馬神廟がなぜギルドホールになったのか、雷祖がどうして祭神として祀られるようになったのか、の二点について、もう一度見ていきたい。当時、ギルドの人々はギルド内で重要と考えられた事項を石碑に刻み、ギルドホールに立てたが、糖餅行の人々も多くの石碑を残している。それらの碑文は、『仁井田陞博士輯北京工商ギルド資料集』第五巻(東京大学東洋文化研究所附属東洋学文献センタi一九八〇、以下「資料集」と略)、および『明清以来北京工商会館碑刻選編』(文物出版社一九八〇、以下「碑刻選編」と略)に収められており、さらに、拓本が『北京図書館蔵中国歴代石刻拓本匪編』(中州古籍出版社一九九〇、以下「北拓」と略)に収録されている。ここでは、こうした碑文を中心的な資料として、上に書いた問題を考えていきたい。
著者
尾上 葉子
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.7号, pp.58-81, 1989-12

中国のギルドについては、西洋ではギャムブル、バージェス両氏の研究が有名であり、わが国においては根岸倍、加藤繁、仁井田陞、今堀誠二の各氏の研究が有名である。中でも仁井田氏は、一九四二年から一九四四年に至る毎年、実際に北京でギルドの調査を行っておられる。この調査に基づいて仁井田氏は『中国の社会とギルド』(岩波書店、一九五一)を著され、また、調査された石刻の内容や、実際にギルドの人々との間で行われた質疑応答の内容は、東京大学東洋文化研究所付属東洋学文献センターから『仁井田陞博士輯北京工商ギルド資料集』(以下『資料集』と略)として出版されている。また、今堀氏は、張家口・包頭などの内蒙古の都市におけるギルドの研究が有名であるとともに、仁井田氏の一九四二年と四三年の北京でのギルド調査に同行しておられる。この論文では、第一章で、これら先行の研究を参考とさせていただきながら、清代北京に存在した「糖餅行」という菓子屋および菓子職人達のギルドについて取り上げてみたいと考える。糖餅行を特に取り上げる理由は、一っには、『資料集』にこのギルドに関して多くの資料が集められていながら、それ自体を主題とする研究がこれまでされていないことである。もう一つには、一つのギルドのなかに北京出身の菓子屋グループである「北案」(「京案」ともいう)と、南京を中心とした南方出身の菓子屋グルー。フである「南案」の二つのグループが存在したという点に興味を持ったためでもある。一つのギルドの中に二っのグループが存在したという例はあまりなく、北京の他のギルドでは、茶商、豆腐屋、刻字行、筆墨商などがあるだけである。また、第二章では、北京の菓子屋およびそこで売られていた菓子について考えることにより、清代から民国の初めに北京で生活していた人々の暮らしの一端に触れてみたいと考えている。なお、中国におけるギルドについての一般的な問題については、前述の方々の研究を参照していただくこととして、ここでは省略する。菓子屋と菓子職人が共同で加入していたのであるが、バージェス氏の調査データでは菓子製造人のギルドと菓子商のギルドが分けられ、質問に解答しているギルド員も別人である。これらの点から明代に創立された菓子製造人のギルドと糖餅行をイコールで結びつけることは甚だ疑問であり、結果として不明という以外にない。