著者
山崎 福太郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b>はじめに</b><br>中世末から現代にかけて三味線を携えて地方を巡業し,興行を催して喜捨を受け生活していた瞽女(ごぜ)と呼ばれる女性視覚障害者が全国各地に存在していた.特に新潟県の瞽女は明治20年代に500人ほど存在し(ジェラルド・グローマー,2014),その後,昭和30年代まで活動を続けていたが,社会の変化に対応する形で現在はその姿を確認することはできない(鈴木,2009).瞽女は師匠から三味線や唄を口承伝承で習うため幼少期に入門し,一人の師匠を中心とした集団を形成して,その集団単位で巡業に出掛けていた.その瞽女集団の複数の存在が新潟県内で確認され,記録されている(鈴木,1972;斎藤,1975など).瞽女の存在については歴史資料の記述や聞き取り調査による報告など記載的な研究のみであり,瞽女集団の形成や巡業範囲などの空間的・時間的変化を検討した研究はほとんどない.そこで本研究では,新潟県内に展開した瞽女の出身分布と巡業範囲,設定時代ごとの各集団の変化について,分布・巡業範囲の特徴,集団と出身分布の位置関係から分析することで,瞽女集団の特徴を地理学的に考察した.<br><b><br>結果と考察<br>集団の形成とその出身分布</b>&nbsp;<br>新潟県内において既存資料から確認できた瞽女集団8組468名の出身分布を分析した.その中でも長岡組と高田組は大きく,出身者も広範囲の分布が確認された.他組の出身者も大規模組の分布範囲と重複する形で各平野内に展開していた.小規模組と大規模であった長岡・高田組を比較すると組織形態や修行年数,弟子の取り方等の類似性が確認できたことから,長岡組と高田組が各平野において影響力を有し,小規模組は大規模組の組織制度等を模倣し,取り入れていたと考えられる.<br><b>時代における集団人数&nbsp;</b><br>瞽女の生存者数は明治後期にピークを迎え,その後,昭和戦後に向かって減少していく特徴がすべての組で見られる.減少の理由は瞽女を生産向上の民間信仰対象として受け入れていた養蚕業の衰退,娯楽・情報の普及等に伴うものとされる(鈴木,1974)ことから,全国の収繭量の推移とラジオ普及率の推移を確認した.収繭量は明治から増加傾向であったが,1931年から1947年の期間で減少している.ラジオ普及率は大正から1944年にかけて高くなっていた.このことから,瞽女の減少は巡業先の受け皿となっていた養蚕農家の衰退とラジオの普及による農村部における娯楽の多様化が進んだことと対応していた可能性が高いと指摘できる.<br><b>巡業範囲の空間分布</b>&nbsp;<br>長岡組と高田組の巡業範囲は米山山地を境に東西に分けられていたが,東頸城地域においては重複が見られた.東頸城地域の重複は既存研究でも指摘されるが,分析の結果,街道に沿って約30kmの入会地の存在が確認できた.この原因としてはおそらく山間地において瞽女を受け入れた住民が寛容であり,かつ積極的に瞽女が持つ情報や芸能を受け取ろうとしていたために巡業の共有地が形成されたと考えられる.&nbsp;<br><b><br>まとめ</b><br>新潟県の瞽女集団は峠を越えて県外巡業に出ていた報告があるため,山地は物理的に越えられない障害ではなかった.県内では山地を越えて,他集団の分布・巡業範囲に入ってしまわないよう勢力範囲の境界を遵守した結果を反映しており,その特徴は出身分布にも見られる.新潟県における瞽女集団は互いの存在を意識した上で組織展開していたことが改めて示された.