- 著者
-
山崎 一穎
- 出版者
- 跡見学園女子大学
- 雑誌
- 跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
- 巻号頁・発行日
- vol.28, pp.53-83, 1995-03-15
大正十三年 (一九二四) 九月五日、松本女子師範学校附属小学校 (現信州大学教育学部附属松本小学校) では、川井清一郎訓導 (現在の教諭) が森鴎外の『護持院ケ原の敵討』を教材にして、四年生の「修身」の授業を行っていた。川井訓導は「児童に与えられる教材は、一面には彼らの心意の発達、特に道徳意識の発達に応ずるものであるとともに……感動あるものでなければならぬ」(「信濃教育」<大正13年10月> 掲載の『修身の取扱ひについて』)と考え、「現行修身書に応じ、これを生かさんが為めの一案」(同) として補助教材を使用した。折からこの授業を参観した文部省視学委員樋口長市東京高師教授や県の教育行政担当者一行が、国定教科書を使用しないのは国法違犯であるという理由で、生徒の面前で川井訓導を詰問し、後の講評の席で批難攻撃してやまなかった。若き教師川井氏は休職処分となり、遂に退職せざるをえなくなる。これが教育史上 <川井訓導事件> と呼ばれているものである。この事件は国の文教政策としての「教育の新主義」の弾圧に呼応して、大正中期以降の信濃教育界に漲る信州白樺派の自由主義教育を県当局は <気分教育> と決めつけ排除に動き、視学委員の視察を要請した。最初から意図を持った視察の見せしめとして、川井訓導は処分される。信濃教育会は <師道の擁護と教権の確立> のために戦っていく。川井訓導を休職、退職に追い込んでいくジャーナリズムの動向が、従来無視されて来た。本稿ではここに重点を置いて <川井訓導事件> を追求する。さらに、この事件の波紋を森鴎外に焦点を当てて見ると、何が見えてくるのか。この新視点から分析してみたのが本稿である。中世文学者、国語教育学者の西尾実氏に、何故森鴎外の作品研究があるのか。京都帝大の哲学科を卒業して、信州の教育界に身を置いた唐木順三氏が、『鴎外の精神』を執筆する土壌は奈辺にあるのか。信濃教育界に於ける森鴎外の系譜を川井清一郎氏、西尾実氏、唐木順三氏と辿ったのが本論である。