- 著者
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岡村 渉
- 出版者
- 一般社団法人 日本考古学協会
- 雑誌
- 日本考古学 (ISSN:13408488)
- 巻号頁・発行日
- vol.9, no.13, pp.113-122, 2002-05-20 (Released:2009-02-16)
- 参考文献数
- 10
登呂遺跡は,静岡平野のほぼ中央,静岡県静岡市登呂に所在する弥生時代を代表する稲作農耕遺跡である。太平洋戦争のさなかに発見され,敗戦直後,考古学者だけではなく,建築・地理・自然科学等の研究者も含んだ学際的な発掘調査が4年間にわたって実施された。この組織的な発掘調査は,現代の日本考古学の出発点となり,日本考古学協会の設立の契機となった。この調査の結果,「弥生時代後期の12軒の住居跡と2棟の倉庫跡から構成される集落跡とその南に広がる同時期の灌漑用水路と護岸杭を伴う畦畔で区画された水田跡を検出し」,弥生時代の農村の具体的な景観が導き出された重要な遺跡として,1952年に特別史跡に指定された。史跡指定に並行して史跡公園「登呂公園」として整備された。しかし,1947年の発掘調査から50年以上が経過し,発掘調査で検出した各遺構や登呂遺跡で導き出された弥生時代の農村景観について多くの疑問や再確認の必要性が出てきた。その解決には再発掘調査が必要であった。このため,静岡市教育委員会は1999年から2003年までの5年計画で発掘調査を実施し,調査成果に基づき再整備をしていく予定である。現在は,1947年から1950年に発掘調査された住居跡5軒を中心に再発掘調査を実施し,現在の視点で住居跡やその周囲の遺構を調査し,集落構造を把握し直している。ここまでの調査の結果,遺跡の保存状態は,洪水の砂を除去すれば埋没前の状況が検出できるという良好なものであった。居住域と生産域(水田域)は水路(区画溝1)と付随する土手により明確に区画されていた。居住域内では,層序関係と遺構間の重複関係により大きく下層遺構(前半)と上層遺構(後半)とに二分でき,それらが更に2段階(合計4段階)以上に変遷していくことも確認された。その後,洪水による砂で埋没し,遺跡は終焉を迎えるが,洪水後に再び掘立柱建物跡や溝状遺構が造られ,別の洪水による砂で再び埋没するという複雑な変遷が明らかとなった。住居跡については,新たに3軒以上検出し,構造では,周堤の外側に周溝を検出し,杭列の範囲を住居の範囲とした過去の知見とは異なった住居の範囲を確認した。水田跡では,手畦によって区画された小区画水田を検出した。出土遺物には,弥生土器・石器(石斧・石錘等)・木製品(容器・建築部材等)・金属器(銅釧・小銅環)の他,炭化米・種子類・貝殻等の自然遺物がある。土器には,遺構の変遷に対応する資料が得られ始めている。また,非常に工芸的な槽作りの琴等も出土し,今までの登呂遺跡のイメージは,大きく変化しつつある。【EDN】