著者
工藤 和俊 岡野 真裕 紅林 亘
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.78, no.7, pp.390-398, 2023-07-05 (Released:2023-07-05)
参考文献数
66

神経細胞を含む多様な細胞の集合体であるヒトの身体は,身体をとりまく地球環境がそうであるように,外界との間にエネルギーの移動があり,要素同士が複雑に相互作用し,束の間の秩序を保ちながら時間発展し自己組織化する非線形・非平衡開放系である.この非線形・非平衡開放系を解析し記述する方法論としての力学系アプローチはこれまで,身体におけるミクロな神経細胞の相互作用から,よりマクロな個体の振る舞い,さらには個体集団の集合的な振る舞いを共通の数理によって記述することに成功してきた.その具体例の1つは,身体運動の揺らぎの構造に関する研究である.絶えず変化し続ける身体ゆえに,たとえ立位で静止しようとしても姿勢を固定して留め置くことはできず,同一の運動を正確に再現しようとしても常に変動が付きまとう.これらの運動の時系列は,しばしば自己相似性(フラクタル性)を示すとともに,運動の学習段階や制御特性に応じてそのスケーリング指数が変化していく.また,このスケーリング指数は立位,歩行,会話を含むさまざまな運動や行為において,個人のダイナミクスすなわち個性を反映する指標になりうる.近年ではさらに,複数の人々が関わる場面を解析対象とすることで,対人間(たいじんかん)におけるダイナミクスレベルでのグローバルな協調関係を定量化する試みが進められている.もう1つの具体例は,ヒトの周期的な身体運動における協調パターンに関する研究である.ヒトの身体運動においては,歩行,ダンス,音楽演奏など,様々な周期的運動の協調パターン変化を,非線形力学系の秩序パラメータ変化に伴う分岐現象として記述できることが明らかになった.これにより,運動の学習プロセスを力学系の時間発展として理解することが可能になるとともに,「無秩序(試行錯誤)から秩序へ」という学習進展だけでなく「既存の秩序から新たなる秩序へ」という種類の学習プロセスを数理的に記述することが可能になった.これらの数理モデルはまた,パフォーマンスの急激な向上や学習停滞(プラトー)など運動の学習プロセスにおける様々な現象が,力学系の時間発展に伴い自発的に生じうることを示唆している.ヒト同士の社会的相互作用についても,対人間の運動協調課題において個人単独とは異なる振る舞いの創発が報告されており,結合振動子系モデルによってこの現象が再現されている.また,対人間における運動の協調がヒトの向社会行動を促進することが明らかにされており,ヒト社会において時代や地域を問わず普遍的に存在する音楽やダンスの社会的機能や役割について,定量的な解析が可能になりつつある.以上のとおり,身体を非線形力学系として捉えるという立場から,ヒト個体のみならず,ヒト集団の社会的振る舞いを含めた幅広い時空間スケールの現象を統一的に捉えることが可能になる.このような物質・生命・社会の境界を越えたスケールフリーの法則性を見出そうとするアプローチは,ヒトの振る舞いを微視的な物質要素から説明しようとする立場に対する相補的な方法論として,今後さらなる発展が期待される.