- 著者
-
岩崎 周一
- 出版者
- 一橋大学
- 雑誌
- 一橋社会科学 (ISSN:18814956)
- 巻号頁・発行日
- vol.5, pp.169-212, 2008-12
本稿は、「<共通の危機>から国家は生まれた」という経済学者シュンペーターの指摘を足がかりとして、近世のハプスブルク君主国において「共通の危機」意識に起因する軍事の発展が国内諸勢力の幅広い統合を促す一因となり、合意形成の過程に多大なインパクトを与えた経緯について考察することを目的とするものである。近世ヨーロッパにおいて広範にみられたように、ハプスブルク君主国においてもとりわけ三十年戦争以降、王権は軍事・戦争を主要な起動力として、国家形成を主導していった。しかし、それは諸身分に代表される中間的諸権力の打破ないし排斥によってではなく、彼らとの協働のもとに達成された。そしてこうした関係が成立する上で決定的な意味をもったのは、まずオスマン帝国、次いでプロイセンの脅威によって恒常的に存続することとなった、「共通の危機」意識であった。特に注目されるのは、確かに軍事負担は徐々に拡大し、軍事に対する国家の権限も徐々に強まっていったものの、それは常に中世以来の伝統的慣習にのっとった上で諸身分との合意形成を通して実現したのであり、国制を根本的に変貌させるような改変は決してなされなかったことである。一方で諸身分の側も、決して常に中央と対立関係にばかりあったのではなかった。また、中央の方針に反発し抵抗することが、必ずしも「公益」に反する行為とはならないことにも注意したい。中央の施策に問題がある場合もあり、宮廷軍事会議をはじめとする中央諸機構の不手際や機能不全といった事態も多々みられた。そして諸身分はこうした事態をたびたび収拾し、国家運営に貢献したのである。少なからず変動はあったものの、近世における「共通の危機」とそれへの対応策としての軍制の発展は、総じて国内諸勢力の利害を広範に一致させると同時に彼らをその当事者ともなして、ハプスブルク君主国の統合に少なからず寄与したといえよう。