著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.25-53, 2017-03

わが国における栄養学の創始者は佐伯矩である。しかし佐伯に関する先行研究は数少ない。その理由は二つある。一つは栄養が強く意識されたのが、震災時(関東大震災)や戦争時であり、平常時には意識されなかった点である。二つは佐伯には体系的な著書がなかった点である。 本稿は佐伯の事績をたどることによって、栄養学の形成過程を考察した。佐伯の栄養への関心から始め、栄養研究所の設立と展開、学会や栄養士の設置などを中心にして考察した。佐伯は震災や戦争という非常時に、食物と人間の関係を見直した。それによって単に食物が多くあればよいというのではなく、人間が食物から効率よく栄養摂取することを考えた。 佐伯は効率の良い栄養摂取を実験やフィールド調査によって明らかにすることによって、科学としての栄養学の確立に努めた。佐伯の試みは栄養学の体系化に至ったとは言い難いかもしれない。しかし国内外に栄養概念を広め、栄養研究所・栄養学会・栄養学校などの制度に対する貢献は大きいものがあった。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
no.30, pp.85-122, 2013-03

津田仙(1837-1908)は、明治期においてキリスト教と深い関わりをもった農学者である。その事績は多方面にわたり、農産物の栽培・販売・輸入を手がけ、「学農社」を創設して、農業書籍や『農業雑誌』などの出版事業をはじめ、多くの農業活動を行なっている。その一方でキリスト教との関わりも深く、キリスト教精神に基づく学校の設立に関係している。 これまでの研究では、津田の農学者としての側面とキリスト教徒としての側面が、どのように結びついているのかという点は、あまり説明されてこなかった。本稿は津田の啓蒙活動を通して、農業とキリスト教の結びつきを明らかにした。 津田は農業改良や農業教育の実践、さらに盲唖教育や女子教育をはじめとする学校教育への理解と協力など、多方面の活動を行なっているが、それらはすべて伝統と偏見を打破する啓蒙活動であったといえる。しかもその啓蒙活動は国家や政府の支援に依らない「民間」活動であった。津田の農業における 啓蒙活動は、官僚化に対する抵抗という側面をもっていた。津田にとって国家や政府の支援に代わるも のがキリスト教(プロテスタント)であり、それが官僚化への抵抗と結びついた。 津田の場合、農業の科学的根拠やキリスト教の教理に関する造詣は深いものではない。しかし津田は啓蒙を重視しているので、難しい学術的な原理をできるだけ平易に説明し、簡明な言語によって農民に 知識を伝え、農山漁村の振興の助けとなることを重視する。津田がめざすのは、農民が自立して、営利的ないし合理的な経済生活を営めるようにすることである。それを達成するには、農民における営利性の自覚が必要である。この自覚は、津田によればキリスト教によってこそ導かれる。 津田の啓蒙活動をきっかけに、地域の特産品が生まれている。たとえば山梨県の葡萄栽培や葡萄酒製造であり、大阪・泉州の玉葱生産である。また農民の組織化にも成功した地域があった。たとえば北海道の開拓地であり、長野県の松本農事協会である。この津田の啓蒙活動の影響は、国内だけでなく海外 にも及んだ。津田は学農社農学校と同様、キリスト教を創立の精神や指導方針に掲げる学校の設立に協力する。「東京盲唖学院」(現・筑波大学付属盲学校)、「海岸女学校」、「普連土女学校」(現・普連土学 園)、「耕教学舎」(現・青山学院大学)、そして娘の津田梅子(1864-1929)が創設した津田塾大学などであった。1 はじめに2 英語とキリスト教3 農業実践の端緒4 農業情報とキリスト教5 学農社の設立と農学校6 農業技術の普及―『農業雑誌』の刊行7 農業技術の定着―地域特産品の形成8 啓蒙活動と農民の組織化9 キリスト教精神と学校教育10 結びにかえて
著者
松川 克彦
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.249-272, 2014-03

山本五十六提督はアメリカ駐在武官も勤め、同国の実力を熟知していたが故に、アメリカとの間の戦争に反対であったといわれている。したがって日独伊三国同盟にも反対であった。しかしながら、日米関係が緊張してくると、アメリカ太平洋艦隊の基地真珠湾を攻撃する計画を作成、その計画実現に向けて強引な働きかけを行った。 これをみると、山本は果たして本当に平和を望んでいたのかどうかについて疑問が起こってくる。一方で平和を望みその実現に努力したと言われながら、実際にはアメリカとの戦争実現に向けて最大限の努力を行った人物でもある。 本論は山本が軍令部に提出した真珠湾攻撃の計画が実際にどのようにして採択されたのか。それは具体的にはいつのことなのか。またその際用兵の最高責任者、軍令部総長であった永野修身はどのような役割を果たしたのかについて言及する。これを通じて、もし山本の計画が存在しなければ、あるいはこれほどまでに計画実現に執着しなければアメリカとの戦争実現は困難だったのではないだろうかという点について論述する。 日米開戦原因については多くの研究の蓄積がある。しかしながら山本五十六の果たした役割についてはいまだに不明の部分が多いと考える。それが、従来あまり触れられることのなかった山本五十六の開戦責任について、この試論を書いた理由である。
著者
塩谷 芳也
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.63-73, 2021-03-31

本研究の課題は,日本における成人の性行動とパーソナリティの関連性を解明することである。日本全国に居住する20–59 歳の男女を対象に,2019 年9 月にWeb 調査を実施し,性交経験人数とビッグファイブによるパーソナリティ(外向性,協調性,勤勉性,神経症傾向,開放性)を測定した(N=300)。性交経験人数を従属変数,ビッグファイブを独立変数として,年齢,教育年数,個人収入をコントロールしながら男女別に重回帰分析を行った。その結果,男性では,外向性と協調性が性交経験人数に対して有意な効果を持ち,外向性が高いほど,また協調性が低いほど性交経験人数が大きくなる傾向が見られた。しかし,女性ではいずれのパーソナリティも有意な効果を示さなかった。これらの結果について,先行研究と比較しながら議論を行った。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.83-125, 2010-03

柳田国男(1875-1962、以下は柳田)は、わが国の民俗学の樹立者である。民俗学は柳田が生涯をかけて構築した学問であるが、柳田が開拓した学問の世界は民俗学にとどまらない。近代文学、農政学、歴史学、社会学、口承文芸論、国語学など、広い学問分野にわたっている。このように多方面の学問分野の基礎となったのは、歴史や経済史学への関心であった。そして、歴史や経済史学への関心のきっかけを与えたのは、周知のように、幼少年期の体験であった。 幼少年期の体験が、柳田のその後の農政学や民俗学への学問的な展開の出発点であった。この体験をきっかけにしているということは、柳田の研究方法がなんらかの抽象原理からの演繹ではなく、感覚と結びついた体験的事実の集成から帰納していくという方法であることを示唆している。柳田の学問スタイルは、帰納的な方法に終始している。柳田の農政学は机上で資料を分析して組み立てようとしたものではない。全国各地をまわって、農村の実態を観察し、自らの農政学の体系を構築しようとしている。柳田は体験的事実の集成によって農政学の構築を図っている。民俗学も同様の方法をとっているので、この点で農政学から民俗学へという展開は、不連続な挫折ではなく、連続性を保っていたといえる。 柳田の農政学は産業組合論を中心に形成された。産業組合の普及啓蒙活動から柳田農政学は始まっているが、民俗学へと関心を移した後も、問題意識においては産業組合論を継承していた。その柳田が農政学から民俗学へと展開した時期に、柳田は報徳社に出会っている。柳田は報徳社に日本の産業組合の原型とでもいうべきものを見出し、その産業組合化を訴える。しかしながら、報徳社を代表する岡田良一郎(18391915)の反論を受け、組合形成の基礎は協同と自助の精神であることを確信している。 柳田は民俗学においても、農村や常民を対象にして、協同と自助の精神の発揮をとらえていこうとする。この精神という点においても、農政学と民俗学は連続性をもっていた。柳田は帰納的な方法を駆使し、史料の欠落による不明瞭な部分は、比較研究によって補いながら、民俗学を構築していった。こういった柳田の学問体系は、後に産業組合論として東畑精一(1899-1983)によって継承される。
著者
ポンサピタックサンティ ピヤ
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.3-19, 2018-03

本研究の目的は,現代タイ社会における若者の精霊信仰にメディアが及ぼす影響を明らかにすることである。筆者は,2016年9月に,タイの若者の精霊信仰に対する考えかたを調査するために,タイ・バンコクの大学生を対象にアンケート調査をおこなった。 本論文は,この調査の結果および2015年の調査を元に,タイの若者の信仰と,それに対するメディアの影響に焦点をあてて考察する。本論文は,その調査の中で特に,マスメディアと精霊信仰の役割についての質問項目をとりあげ分析考察をめざすものである。また,2015年の調査と比較し,その意識変化を探りたい。調査の結果,タイの若者の多くは,テレビドラマやテレビ番組,映画から精霊に関するイメージや情報を得ていることが明らかになった。そして,若者がイメージする男性精霊は特定のものに集中しているが,イメージされる女性精霊は多様であることがわかる。さらに,現代タイ社会において女性の精霊は男性の精霊より怖いイメージで,男性の精霊は女性の精霊よりも優しいイメージで捉えられている。なお,2015年と翌年の調査結果を比較した結果,ほとんど違いは見られないが,特定の精霊はテレビなどのメディアに出演することによって,より一層イメージされやすくなる傾向にあることが明らかになった。このような研究結果により,タイの若者は,テレビや映画などのメディアに表象される精霊イメージの影響を受けていると考えられる。
著者
菅原 祥
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
no.38, pp.75-96, 2021-03-31

本稿が試みるのは「SF の社会学」という新たな試みに向けた第一歩である。それは,SF 文学を一種の社会学的テクストとして(あるいは,従来の社会学が苦手としてきたような領域を社会学的な考察の俎上に載せるためのヒントになるようなテクストとして)読むことを提唱する。この目的のために,本稿はアーシュラ・K・ル・グィン(ル=グウィン)の『所有せざる人々』(1974)を「時間の社会学」の観点から詳細に読解し,この作品が社会学における時間に関する議論にどのような新たな視点を付け加えることができるかを検討することで,SF が社会学にどのような貢献をなしうるかを考察する。考察の結果,SF 文学には「時間の社会学」に対して以下のような有効性があることが示唆された。第一に,「異化の文学」としてのSF 文学は,その最良の場合において「他なる時間のあり方」への想像力を喚起する。そこにおいてSF 文学は,物理学や生物学の知見を取り入れることによって「社会的時間」という社会学用語が含意する人間中心主義の独善を免れることが可能なのであり,それによってさまざまな存在レベルの時間を相互に横断し結びつけるような社会理論へと思考を媒介していくことが可能である。第二に,SF 文学は,このような「他なる時間のあり方」をさらに「人間的時間」へと再び差し戻し,翻訳しなおすことによって,人間と「未来」との関わりの有り得べき可能性の探求を可能にしている。そこにおいては現実に対するユートピア的な改変可能性の力を有する「未来」のあり方が示唆される。ここに,「未来」通じて現在を批判的に考察する文学としてのSF 文学の強みがある。
著者
松川 克彦
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.249-272, 2014-03

山本五十六提督はアメリカ駐在武官も勤め、同国の実力を熟知していたが故に、アメリカとの間の戦争に反対であったといわれている。したがって日独伊三国同盟にも反対であった。しかしながら、日米関係が緊張してくると、アメリカ太平洋艦隊の基地真珠湾を攻撃する計画を作成、その計画実現に向けて強引な働きかけを行った。 これをみると、山本は果たして本当に平和を望んでいたのかどうかについて疑問が起こってくる。一方で平和を望みその実現に努力したと言われながら、実際にはアメリカとの戦争実現に向けて最大限の努力を行った人物でもある。 本論は山本が軍令部に提出した真珠湾攻撃の計画が実際にどのようにして採択されたのか。それは具体的にはいつのことなのか。またその際用兵の最高責任者、軍令部総長であった永野修身はどのような役割を果たしたのかについて言及する。これを通じて、もし山本の計画が存在しなければ、あるいはこれほどまでに計画実現に執着しなければアメリカとの戦争実現は困難だったのではないだろうかという点について論述する。 日米開戦原因については多くの研究の蓄積がある。しかしながら山本五十六の果たした役割についてはいまだに不明の部分が多いと考える。それが、従来あまり触れられることのなかった山本五十六の開戦責任について、この試論を書いた理由である。
著者
岩崎 周一
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.123-154, 2013-03

本論の目的は、近世においてハプスブルク君主国の兵士たちが実際に生きた世界の実状を、当時の法 令・通達、および関係者が残した体験記・見聞録を史料として検討することである。 17 世紀末より、常備軍の必要性を確信したハプスブルク王権は、軍を可能な限りその統制下におこう とした(「軍隊の君主国化」)。しかし、忠良にして勇敢・優秀な自国民出身の兵士によって構成される、 国家による管理監督が行き届いた軍隊の形成という理想が実現されることはなかった。人々の意識にお いて、戦争や軍事は基本的に自分とは関わりのない厄介事であった。実際に軍人・兵士となったのは、 (1)傭兵を生業とする人々、(2)強制的な徴募の犠牲となって意に反して軍役につかされた人々、(3) それまでの生活環境から脱出し、社会的上昇を果たす機会として軍役をとらえた人々のいずれかであっ た。また兵士たちは、身分・出身・民族・宗教・言語などにおいて多種多様であり、共属意識にはきわ めて乏しかった。 近世の軍隊が抱えたこうした諸問題を解決する策として、18 世紀後半からは、現実に存在する多様性・ 多元性を超克するような「国民」意識や愛国心の涵養が主張されるようになった。そしてこの主張の実 現は、フランス革命とナポレオン戦争がもたらした動乱の後、達成すべき国家目標に変化する。ハプス ブルク君主国の軍隊は以後その崩壊にいたるまで、個々の領邦や民族ではなくハプスブルク君主国その ものに愛国心をいだく「国民」を担い手とすることをめざし、不断の苦闘を重ねることとなっていった。
著者
菅原 祥
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.75-102, 2019-03-30

本稿は,近年の日本社会における「団地」を一種のノスタルジアの対象として見るようなまなざしのあり方を「団地ノスタルジア」と名付け,この団地ノスタルジアを分析するための足がかりとなるような予備的考察を提供することを目的としている。この目的のため,本稿では1960年代当時において「団地」を文学作品の中で扱ったものとして影響力の大きかった安部公房の小説『燃えつきた地図』(1967)を現代の団地ノスタルジアに先行する想像力を含んだ先駆的作品として読み解き,そこに見出される論理が現在においていかなる意義を持ちうるのかを検討する。さらに,この『燃えつきた地図』において提起された問題が,現在の団地ノスタルジアにおいてどのような形で継承・発展させられているのかを検討するために,近年の代表的な団地ノスタルジア的文学作品として,柴崎友香『千の扉』(2017)を取り上げる。 これらの分析を通じて新たに明らかになった知見は以下の4点である。(1)団地ノスタルジアとは,「団地」という建築空間の中に,ここ数十年の時間とそこにおける断片的な記憶が寄り集まって集積するような一種の「磁場」を見出す想像力のことである。それは決して何らかの美化された過去への回帰願望ではなく,むしろそうした過去の記憶が集積した結果として存在する「現在」を志向している。(2)団地ノスタルジアは,時に徹底して「反ノスタルジア的」「反ユートピア的」である。すなわちそれは,過去に措定された「幸福な過去」へと回帰することで共同性や全体性を回復しようとするような,素朴なノスタルジアやユートピア主義とは一線を画すものであり,むしろ過去に対するより反省的・批判的な態度のありかたを示唆している。(3)団地ノスタルジアはこのような安易なユートピアへの回帰による共同性の復活を拒絶しつつ,新たな形での「共同性」を模索する想像力である。(4)この共同性は,団地という場が孕む「危機」や「空虚」から目をそむけるのではなく,逆にそれに徹底的に向き合うことから生まれうるものである。
著者
岩﨑 周一
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.201-230, 2014-03

本稿の課題は、軍事史研究においてややもすれば受動的な存在として扱われがちな地域社会の立場から、兵役と兵站の問題を軸として、近世のハプスブルク君主国における軍隊と社会をめぐる諸関係を逆照射して考察することにある。 近世において増大の一途を辿った兵力需要に対応するため、ハプスブルク王権は支配下の諸地域の諸身分の協力をあおぎ、平民から兵士を募るようになった。改革を重ねる中で、徴募は次第に強制的な色彩を強め、場合によっては地域社会の人口動態や構造を変化させるほどの影響をもたらした。 こうした動きに対し、民衆は徴募逃れや逃亡といった形によって抵抗した。しかし、地域社会においては階層分化が進行しており、上層に属する人々ほど徴募を免れる可能性が大きかった。これに対し下層に属する人々は、徴募を免れる手段をほとんど持たなかったばかりか、領主および都市・村落共同体による、徴募を口実とした「厄介払い」や身代わりの強要に怯えなければならなかった。しかし一方、生活環境が劣悪な地域には、兵役に生活改善のチャンスをみいだす人々も存在した。 兵站に関する負担は、近世になると、しばしば臣民の生活を脅かすまでに重いものとなった。国家や諸身分、そして領主は負担の軽減に一定の努力をみせたものの、十分なものとはならなかった。また、領主は在地権力としての立場から、兵站に関する諸負担を領民を統制する手段として利用した。これは徴募においても同様である。総じて、軍事負担をめぐる問題は、地域社会における領主権力の強化に利用されたといいうるであろう。 ただし、地域社会にとって、軍は一義的に問題をもたらす存在ではなかった。領邦防衛と消費者という二つの役割により、軍は地域社会の構成員として、徐々にその地歩を固めてもいったのである。
著者
菅原 祥
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
no.36, pp.75-102, 2019-03-30

本稿は,近年の日本社会における「団地」を一種のノスタルジアの対象として見るようなまなざしのあり方を「団地ノスタルジア」と名付け,この団地ノスタルジアを分析するための足がかりとなるような予備的考察を提供することを目的としている。この目的のため,本稿では1960年代当時において「団地」を文学作品の中で扱ったものとして影響力の大きかった安部公房の小説『燃えつきた地図』(1967)を現代の団地ノスタルジアに先行する想像力を含んだ先駆的作品として読み解き,そこに見出される論理が現在においていかなる意義を持ちうるのかを検討する。さらに,この『燃えつきた地図』において提起された問題が,現在の団地ノスタルジアにおいてどのような形で継承・発展させられているのかを検討するために,近年の代表的な団地ノスタルジア的文学作品として,柴崎友香『千の扉』(2017)を取り上げる。 これらの分析を通じて新たに明らかになった知見は以下の4点である。(1)団地ノスタルジアとは,「団地」という建築空間の中に,ここ数十年の時間とそこにおける断片的な記憶が寄り集まって集積するような一種の「磁場」を見出す想像力のことである。それは決して何らかの美化された過去への回帰願望ではなく,むしろそうした過去の記憶が集積した結果として存在する「現在」を志向している。(2)団地ノスタルジアは,時に徹底して「反ノスタルジア的」「反ユートピア的」である。すなわちそれは,過去に措定された「幸福な過去」へと回帰することで共同性や全体性を回復しようとするような,素朴なノスタルジアやユートピア主義とは一線を画すものであり,むしろ過去に対するより反省的・批判的な態度のありかたを示唆している。(3)団地ノスタルジアはこのような安易なユートピアへの回帰による共同性の復活を拒絶しつつ,新たな形での「共同性」を模索する想像力である。(4)この共同性は,団地という場が孕む「危機」や「空虚」から目をそむけるのではなく,逆にそれに徹底的に向き合うことから生まれうるものである。
著者
田中 寧
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.63-82, 2010-03

本稿の主旨は大学進学の経済的メリットを内部収益率の概念を使って説明することであるが、従来の内部収益率の定義にいくつかのバリエーションを加えた分析を試みた。費用については学費以外でも生活費や家庭の負担なども考慮し、賃金については産業別の賃金を使って、様々な内部収益率を算出した。 その結果、現在の日本では、(1)まだ大学進学に経済的メリットはあるが、(2)家庭の負担は大きくメリットをかなり下げる、(3)国立・私立大、自宅・下宿などの違いがメリットの大小に大きく影響を与える、(4)産業間格差がかなり大きく、就職先産業が大学進学のメリットを決めてしまう、(5)教育機会の平等化とそれに伴う社会の平等化が不十分である、(6)グローバル化される国際社会において日本の高等教育市場や労働市場の競争力の低さが懸念される、などの点が指摘された。 このことから本稿は、(1)教育ローンの充実化、(2)授業料の再検討、(3)産業別賃金プロファイル格差の再検討、などを提案する。
著者
松川 克彦
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
no.23, pp.99-125, 2006-03

拙稿は1970年に締結され、オーデル・西ナイセの境界を戦後はじめて正式な国境として承認したポーランドと西ドイツ関係正常化基本条約、及び締結に至る経緯を扱う。この条約はポーランドにとってのみならず、ヨーロッパ全体の安定のためにも不可欠の条約であったにも拘らず、その背後には歴史的な対立が存在したため締結までに25年という歳月を要している。 冷戦期、ドイツは東西に分裂していたにもかかわらず、ポーランドとの新しい国境を認めないという点では一致していた。二つの国家に分断されたとはいえ、ポーランドに対しては共同歩調をとり得たのである。東ドイツは、社会主義国としてポーランドと同じ陣営に属していながら、その望むところは戦前の旧国境の回復であった。しかし東ドイツは1950年にソ連からの圧力によって、この国境を承認せざるをえなかった。問題は西ドイツだった。ポーランドは、西ドイツからの承認が得られない限り、自国の存立の基盤、安全の保障に支障があったのである。 敵対的な両国の関係に転機をもたらしたのは、新たに西ドイツ首相となったブラントであった。東側との和解を求めんとするブラントは1970年にワルシャワを訪問して、国境承認に関する条約に調印したが、その際ゲットーの跡の記念碑に詣で、そこにひざまずいたのである。ポーランド側にとって誠に好都合なジェスチュアであると思われたのであるが、同国はブラントのこの行為に困惑した。ひざまずいている写真を国内で報道することを一切許さなかった。 その理由は、直接にはブラント訪問の三年前、ポーランド社会主義政権が始めたユダヤ系ポーランド市民排斥の動きに抗議して学生、労働者がおこした反体制運動と関連している。ポーランドの共産党第一書記ゴムウカは、ブラントがこれらユダヤ人を支援するとの意図を持つのではないかと疑った。 また社会主義陣営内では一般国民に向けて、西ドイツとは即ち「アメリカ帝国主義の手先」であって、常に報復を企てている悪辣な国家であるとの宣伝を行っていた。ここでブラントがひざまずいた写真を公表するならば、従来の西ドイツに関する説明は、根拠が薄弱となることを認めなければならない。写真を公表しなかったのはそのためでもある。 ゴムウカは破綻しかかっている社会主義の経済、全体主義的な支配にたいする国民の不満をさらに覆い隠すためにも、真実を発表できなかったのである。しかし、発表しなかったことによっても政権は救えなかった。ブラントのこの行為は結局、社会主義専制体制の崩壊へとつながっていく。ポーランドを取り巻く列強の思惑、東ドイツとの関係に触れながら、以上の点を明らかにする。1.はじめに2.ポーランドの東西国境形成と列強3.オーデル・ナイセ境界と西ドイツ4.ゴムウカとウルブリヒトの反目5.ポーランド・西ドイツ関係正常化へ6.ブラント訪問の波紋7.まとめとして
著者
松川 克彦
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.99-125, 2006-03

拙稿は1970年に締結され、オーデル・西ナイセの境界を戦後はじめて正式な国境として承認したポーランドと西ドイツ関係正常化基本条約、及び締結に至る経緯を扱う。この条約はポーランドにとってのみならず、ヨーロッパ全体の安定のためにも不可欠の条約であったにも拘らず、その背後には歴史的な対立が存在したため締結までに25年という歳月を要している。 冷戦期、ドイツは東西に分裂していたにもかかわらず、ポーランドとの新しい国境を認めないという点では一致していた。二つの国家に分断されたとはいえ、ポーランドに対しては共同歩調をとり得たのである。東ドイツは、社会主義国としてポーランドと同じ陣営に属していながら、その望むところは戦前の旧国境の回復であった。しかし東ドイツは1950年にソ連からの圧力によって、この国境を承認せざるをえなかった。問題は西ドイツだった。ポーランドは、西ドイツからの承認が得られない限り、自国の存立の基盤、安全の保障に支障があったのである。 敵対的な両国の関係に転機をもたらしたのは、新たに西ドイツ首相となったブラントであった。東側との和解を求めんとするブラントは1970年にワルシャワを訪問して、国境承認に関する条約に調印したが、その際ゲットーの跡の記念碑に詣で、そこにひざまずいたのである。ポーランド側にとって誠に好都合なジェスチュアであると思われたのであるが、同国はブラントのこの行為に困惑した。ひざまずいている写真を国内で報道することを一切許さなかった。 その理由は、直接にはブラント訪問の三年前、ポーランド社会主義政権が始めたユダヤ系ポーランド市民排斥の動きに抗議して学生、労働者がおこした反体制運動と関連している。ポーランドの共産党第一書記ゴムウカは、ブラントがこれらユダヤ人を支援するとの意図を持つのではないかと疑った。 また社会主義陣営内では一般国民に向けて、西ドイツとは即ち「アメリカ帝国主義の手先」であって、常に報復を企てている悪辣な国家であるとの宣伝を行っていた。ここでブラントがひざまずいた写真を公表するならば、従来の西ドイツに関する説明は、根拠が薄弱となることを認めなければならない。写真を公表しなかったのはそのためでもある。 ゴムウカは破綻しかかっている社会主義の経済、全体主義的な支配にたいする国民の不満をさらに覆い隠すためにも、真実を発表できなかったのである。しかし、発表しなかったことによっても政権は救えなかった。ブラントのこの行為は結局、社会主義専制体制の崩壊へとつながっていく。ポーランドを取り巻く列強の思惑、東ドイツとの関係に触れながら、以上の点を明らかにする。
著者
塩谷 芳也
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
no.38, pp.63-73, 2021-03-31

本研究の課題は,日本における成人の性行動とパーソナリティの関連性を解明することである。日本全国に居住する20–59 歳の男女を対象に,2019 年9 月にWeb 調査を実施し,性交経験人数とビッグファイブによるパーソナリティ(外向性,協調性,勤勉性,神経症傾向,開放性)を測定した(N=300)。性交経験人数を従属変数,ビッグファイブを独立変数として,年齢,教育年数,個人収入をコントロールしながら男女別に重回帰分析を行った。その結果,男性では,外向性と協調性が性交経験人数に対して有意な効果を持ち,外向性が高いほど,また協調性が低いほど性交経験人数が大きくなる傾向が見られた。しかし,女性ではいずれのパーソナリティも有意な効果を示さなかった。これらの結果について,先行研究と比較しながら議論を行った。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.21-49, 2018-03

食糧管理制度は,戦時下であった1942(昭和17)年の食糧管理法の制定から,約半世紀にわたり,わが国の食糧政策の根幹であり続けた。本稿はその起源を戦時体制下の食糧政策に求め,今日も続く自給をめぐる管理体制の問題を明らかにした。 1939(昭和14)年の朝鮮大旱魃をきっかけとして,わが国の食糧管理体制が構築された。この体制は外米輸入や消費規制を重視したが,食糧の供給不足が続くなかで,農林省は農家保有米の制限や配給の導入を行なった。それとともに外貨を流出せずに外米を輸入できる仕組みを整え,供給不足の解消をめざした。さらに1941(昭和16)年に食糧管理局が設置され,日米開戦後に食糧管理法が制定された。 しかし戦局の悪化に伴い,外米輸入や朝鮮・台湾からの移入が困難となった。農林省は国内自給を訴えたが,食糧管理体制は脆弱性を露呈した。この体制の維持には,農家の供出が重要となったが,その完遂は容易ではなかった。 終戦直後,食糧管理局はGHQ に対する食糧輸入の懇請を行なった。GHQ は食糧輸入を通して,日本の食糧管理に深く関与したが,国内自給を最も重視した。このためにGHQ は,食糧管理局主導の食糧管理強化を許容せざるをえなかった。これによって食糧管理局は戦後も食糧管理体制を存続・強化することになった。これが現在も続く自給率向上の強調へとつながっていった。