- 著者
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島 善高
- 出版者
- 早稲田大学
- 雑誌
- 一般研究(C)
- 巻号頁・発行日
- 1992
近代皇室制度とくに明治皇室典範がどのような過程を経て制定されたのかを研究するため、宮内庁書陵部、国立国会図書館憲政資料室、国立公文書館、早稲田大学図書館それに國學院大学図書館に所蔵されている皇室制度関係史料を収拾し、それらのリストを作成しつつある。この作業はまだ継続中であるが、その間に得た新知見の要点を記すと、1、古くから使用されていると考えられていた「万世一系」の語は、公式文書では、岩倉具視を大使とする遣外使節団持参の国書に見えるのが最初である。2、明治憲法起草者の一人である井上毅は、主としてドイツのブルンチュリの唱える公法学説に依拠して、天皇の個人的意思を国政からできるかぎり排除しようとした。但し、西洋法原理をそのまま導入するといろいろの点でまづいので、国譲神話の「シラス」に注目して、わが国にも太古の昔から公法原理があったのだと主張した。3、しかし、このような井上説を継承した者は穂積八束や上杉慎吉らごく少数の者のみであって、美濃部達吉などの主流派は殆ど「シラス」論を顧慮しなかった。4、明治憲法制定以後の日本には、皇室典範と憲法との両者を共に最高法規とするいわゆる二元体制が続いたが、その淵源が明治十一年末の岩倉具視の奉儀局開設建議にあることを確かめた。5、近代の文書には「天佑を保有し」云々の語が多用されているが、明治初年に西欧のGottesgnadentumに倣って、わが国の国書に用いられるようになったことを明らかにした。6、明治初年の政府が皇族制度をどのような方向で改革しようとしていたのかは、史料の制約もあって不明な点が多いが、明治初年の法典編纂特に民法典編纂の流れの中で、皇族制度も西欧のような親族法や相続法の原理と整合性があるようにしなければならないとの意見が出され、それによって天皇の寝御に侍る女官の制の見直しや親王宣下という天皇の養子制度の改正が目指されたのであった。