著者
島倉 聖朗
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100340, 2017 (Released:2017-05-03)

1.研究の目的 日本における西洋音楽の受容ついては,他の多くの西洋文化と同様に,当時の交通事情に影響を受け,海外に向けた出入り口として,横浜,神戸といった港湾都市は独自の存在感をもっていた.横浜,神戸は,現在ともに「ジャズの街」や「日本のジャズ発祥の地」と標榜されており,どちらもジャズ輸入時期にその窓口となったと言われている.大正初期に横浜からサンフランシスコへの国内資本による太平洋航路において,客船内で音楽演奏をする,いわゆる「船の楽士」が日本へジャズをもたらしたことは,音楽史の分野での先行研究では明らかにされているが,地理学的視点で捉えた研究はほとんどない. そこで,本研究では,その「船の楽士」の活動に着目して,彼らの果たした役割,演奏技術の移転,その後の職業音楽家としての活動の場といった視点から,西洋音楽受容と横浜の関係性を明らかにすることを目的とする.2. 「船の楽士」の始まり 1912年(大正元年)8月,橫浜港よりサンフランシスコに向けて出航した東洋汽船の客船に,東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)の卒業生らが,5人の小編成楽団を組み,主に昼食・夕食時に演奏した.私立の音楽学校は就職先を確保することが困難な時代,卒業生が外国航路の客船に乗船し,乗船客向けに演奏を提供できれば,働きながらも海外で新しい音楽を直接見聞できるということであった.彼らは「船の楽士」と呼ばれ,彼らの活動は,メンバーを変えながら大正年間を通じ,さらに昭和16年までの約30年間に渡った.クラシック,後にジャズと呼ばれるダンス音楽など幅広い音楽を吸収し,「船の楽士」を通じて日本国内に広まった.3. 演奏技術の習得と陸に上がった楽士の活動       サンフランシスコでは,楽譜,楽器,レコードを購入し,それらを日本へ持ち帰ったと同時に,停泊期間中に現地ホテルの専属楽団からの演奏指導,他国の客船楽団との交流を通じて新しい音楽技能を身につけた.初期の「船の楽士」は,陸にあがったのち,乗船時代の経験を生かし,東京銀座の活動写真館での無声映画伴奏をはじめ,帝国ホテルなどにおけるサロン音楽演奏のオーケストラのメンバー,浅草の劇場でのオペラ演奏楽団員,横浜鶴見にあった花月園ダンスホールの専属バンドのメンバーとして活動した.これが昭和に入ると,カフェーやダンスホールなどでのジャズ演奏家に転じるものも出てきて,日本ジャズ創世期を担った.4. 結論「船の楽士」は,現在でいうところの「ジャズ」を完成された形で輸入したわけではなく,その時々に流行したダンス音楽の影響を受け,ジャズに転じたことが明らかになった.また,横浜は,海外からの文化の出入り口であったが,外国人が文化をもたらすだけでなく,横浜港から海外に出て行き,帰ってきた日本人によって海外の文化が日本にもたらす場としての二面性を持っていたことも明らかになった.〔文献〕大森盛太郎(1986) 『日本の洋楽1』新門出版社瀬川昌久+柴田浩一(2015) 『日本のジャズは橫浜から始まった』一般社団法人ジャズ喫茶ちぐさ・吉田衛記念館武石みどり(2006) 「ハタノ・オーケストラの実態と功績」お茶の水音楽論集 2006-12 お茶の水女子大学