著者
石坂 澄子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100284, 2017 (Released:2017-05-03)

はじめに 日本で発明された寒天は,取り扱いの簡易さと汎用性の高さで早くから海外輸出品となったが,現在は輸入品が高いシェアを占めている.本発表は寒天の貿易について,歴史的な流れと貿易統計のデータを元にした検討を行うことを目的とする.1.中国への輸出  17世紀中頃に誕生した寒天は,貞享年間(1684~87)には早くも輸出品の一つとなった.江戸時代の対清貿易において,銅の流出を懸念した幕府は,代わりに海産物を支払いの対価に用いた.これを俵物諸色といい,諸色の中に寒天が含まれている.寒天の原料となるテングサの産地は伊予のほかは,相模,豊後,伊豆,紀伊など黒潮の流れる太平洋岸沿岸である。その一方,製造は大坂の摂津地域の冬季寒冷な山間部で行われた.出来上がった寒天は長崎へ運ばれて,中国へ輸出されていた.寒天は生産量の大部分が輸出品となっており,例えば1821(文政4)年の史料によると,元艸惣買入高のうち8割5分が長崎貿易用の細寒天に,残りの1割5分が国内消費用の角寒天に仕立てられていた. 明治に入ると寒天の積出港は神戸・大阪・横浜に変わった.三港が輸出港となった理由は,神戸は後背地である摂津地域が古来からの伝統的・歴史的な寒天の大産地であったためであり,大阪は昔からの大寒天問屋が多数存在しており,阪神居住の中華商人が輸出業者として活躍したため,横浜は,関西より遅れて製造が開始された信州寒天が,1885(明治18)年の信越線(上野-横川間)開通によって輸送の便が良くなり後背地に成長したからである. 2.欧米への輸出  近代以降,寒天は中国以外のアジアや欧米にも販路を広げた.欧米では,ゼラチンの代用として食用に使われていた.更にロベルト・コッホが1882(明治15)年に発表した結核菌の論文の中で寒天培地について述べたことにより,需要は一気に急増した. 細菌の培養は,寒天の前にはゼラチンが利用されていたが,寒天よりも低い温度で溶けるという欠点があった(ゼラチンの融解温度〔一度固まってから溶け始める温度〕は25~35℃,寒天は70~90℃).ゼラチンの代わりに寒天を利用するアイデアは,コッホの元で細菌学を学んでいた医者の夫人によるもので,彼女がフルーツゼリーを作る時にゼラチンではなく寒天を使っていたことが元である.彼女はそのレシピを母親から教わっており,母親はジャワに住んだことのあるオランダ人の友達から教えてもらっていた. 3.輸出品から輸入品への転化  原藻の輸入は1952(昭和27)年から始まっており,寒天の輸入もこの頃からと考えられる.寒天の輸出入量は1977(昭和52)年にほぼ同量となり,その後拮抗していたが,1987(昭和62)年を境に輸出と輸入が逆転した.現在は輸入量が圧倒的に多い.原藻も,現在国内で使用されているテングサの8割弱は輸入品である.おわりに  寒天の製造と流通には海運が大きな役割を担っている.今回は貿易に焦点を当てた.採藻・製造から流通への一連の流れを体系化することを今後の課題としたい.文 献野村豊 1951.『寒天の歴史地理学研究』大阪府経済部水産課林金雄・岡崎彰夫 1970.『寒天ハンドブック』光琳書店山内一也 2007.細菌培養のための寒天培地開発に秘められた物語.日生研たより 53:26.
著者
本田 智比古
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100065, 2017 (Released:2017-05-03)

1. はじめに国名や都市名,自然地域名称などの地名をどのように表記するのかは,地域を研究対象とする地理学においては大変重要な問題である.しかしながら,地名表記の標準化をつかさどる国家機関が存在しないため,地名の表記は統一が図られず,時にはその不統一性から,同一都市を別の都市と誤解するような事態も生まれている.そのようななか,教科書業界において,地名表記に対してどのような取り組みが行われているのか,帝国書院を例に取り上げ,地名表記にどのような課題があるのか考えてみたい.2. 教科書における外国地名の表記に関して戦後の教育業界において,最初に地名表記の統一が図られたのが,1950年代である.文部省に専門の委員会が設けられ,教育的見地から外国地名と国内主要自然地域名称の呼び方と書き方の基準が検討された.委員は,教育関係者だけでなく,外務省,建設省地理調査所,報道関連など各所から集められ,検討の結果は1959年刊行の『地名の呼び方と書き方』という書籍にまとめられた.以降,この基準書は1978年の『地名表記の手引き』,1994年の『新 地名表記の手引き』へと受け継がれ,教科書業界ではこれらの基準書に従い地名を表記することで,地名表記の統一を図ってきた.しかし,新聞社やテレビ局などの報道機関は会社ごとに独自の基準を作成しており,この基準書に準じなかったという点,1994年以降,続編書籍が刊行されていないという点で課題が残っている. このようななか,教科書業界では,特に国名と首都名に関して特段の配慮を行ってきた.1970年代から2007年までは,『世界の国一覧表』という外務省見解をコンパクトにまとめた書籍を統一原典として使用してきた.また,2007年にこの書籍が廃刊となって以降は,教科書会社で組織している教科書協会に,国名と首都名に関する表記を統一する連絡会議が設けられ,地図帳を発刊している東京書籍・二宮書店・帝国書院の三社の地図帳編集部門担当が毎年集まり,見解の統一を図っている. しかし,このように統一できている外国地名は主要地名だけであり,その他の詳細地名の表記は教科書会社で異なっているのが実情である.例えば帝国書院では,前述の『新地名表記の手引き』が1994年に発刊されたことを受け,本書が掲げる現地音表記の精神を地図帳に反映するため,1998年に地名表記の大幅な見直しを行っている.各言語の専門家数十人にご協力をいただきながら,「英語発音や旧宗主国言語の名残があった地名も原則として現地音表記に改める」などといった新しい原則を設け,地名表記を一新した.だが,これらの帝国書院独自の取り組みにも課題はまだ残っている.例えば,現地音をどの少数民族のものまで徹底するか,現地音を日本語の片仮名表記でどこまで正確に再現できるか,などである.地名表記の検討に対しては,情勢の変更も踏まえながら,不断の努力を行うことが必要である.3. 教科書における国内地名の表記に関して 外国地名に比べると地名表記が統一されているように見える国内地名であるが,これにも課題はある.まず,世界の地名と同様に,詳細地名に関する業界での統一基準が無い点である.帝国書院では,行政地名は国土地理協会発刊の『国土行政区画総覧』,自然地域名称は国土地理院発行の『決定地名集(自然地名)』,鉄道名やスタジアム名等はそれぞれを管理する会社の資料を原典とし,地名表記を社内では統一している. 国内地名の表記に関しては,使用漢字の字体のばらつきという課題もある.例えば飛騨市や飛騨山脈の「騨」は,パソコンの標準変換では出すことができない「」という字体を多くの教科書では採用しているが,これを通常の出版物にまで強要するのは難しいと考える.また,2004年に漢字のJISが改正され,168字の漢字の登録字形が変更されたため,該当漢字がパソコンや印刷機のフォント環境によって異なった字体で印刷されるという問題も起きている.地名として登場するものとしては,「葛・葛」や「薩・薩」,「逢・逢」などがその対象である.(「 」内の右側が2004年以前の,左側が2004年以降のJISにコード登録されている字体)4. まとめ このように外国地名,国内地名ともその表記に関しては様々な課題を抱えているのが現状である.それらの課題を個々の会社や団体だけで解決することは不可能であり,また努力を行うほど,他社や他の業界と不統一を起こす結果にもつながりうる.そのため,国家地名委員会が設置され,この委員会のもとで地名表記の標準化が図られることの意義は非常に大きいと考えている.
著者
水田 義一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100269, 2017 (Released:2017-05-03)

明治初期の三重県と和歌山県の境界画定の結果、北山村は村全体が飛び地となった。なぜ熊野地方の中心都市である新宮市の都市圏を無視した県境が施行されたのであろうか。この地域は古代の国の境界が不安定で、帰属する領域は志摩国、伊勢国、紀伊国と変遷してきている。発表では国境の画定の経過と境界が移動した要因を探るのを目的とする。 1 熊野国 熊野国という地名は、平安時代の『先代旧事本紀』10巻「国造本紀」に「熊野国 志賀高穴穂朝御世、嶢速日命五世孫、大阿斗足尼定賜国造」と出てくる。また『続日本紀』に「従四位下牟漏采女熊野直広浜卒す」とあり、熊野国造の系譜をひいた有力者が牟婁郡にいたことを示している。ところが、『日本書記』は「紀伊国熊野之有馬村」「熊野神邑」「熊野荒坂津」「熊野岬」と記し、熊野国と記すことはない。木簡史料も牟婁郡と記して熊野とは記さない。近世の地誌書『紀伊続風土記』は、大化の改新によって熊野国は紀伊国の牟婁郡に改称されたという説を記し、この説が今も継承されているが、記紀はがなく、行政的な熊野国は存在しなかった。 2 古墳の欠如と郷の分布紀伊半島の先端部では、考古学的な調査事例は少ないが、分布調査から、縄文土器が出土し、弥生土器はほとんどの浦や河口の低地で発見されている。次に古墳の分布をみると、枯木灘から熊野灘にかけて、150kmの海岸には古墳の見られない地区が続く。僅かに周参見と那智勝浦町の下里(前方後円墳)に2基みられるに過ぎない。9世紀の『和名抄』に記された郷の分布をみると、紀伊国の三前郷(潮岬)と、志摩国英虞郡二色郷(錦)まで、100kmの海岸部は、2つの神戸郷と餘部郷記されるが、その所在地も曖昧で、紀伊・志摩国の国境の画定は難しい。実態は未開地が広がり、それが自然の国境をなしていたのではあるまいか。3 伊勢国の拡大 南北朝期に北畠氏は南朝の主力として戦い、南北朝合体後も伊勢国司として代々国司職を継承した。その勢力範囲は伊勢南部、志摩国全土および牟婁郡(熊野地方)に及んでいた。各地に親族を配し、在地の武士を被官化して戦国大名化していった。熊野灘沿岸の旧志摩国英虞郡をその領域に組み込んでいるが、いつ伊勢国度会郡となっていったか、その時期は確定できていない。4 紀伊国と伊勢国の国境 至徳元年(1384)に、北畠氏の家臣加藤氏が、志摩国に進出して長島城を築いて伊勢北畠領の拠点とした。その後2世紀にわたり、尾鷲、木本一帯で紀伊国の有馬氏・堀内氏と合戦を繰り返した。最後に新宮に本拠を置く堀内氏善が天正10年(1581)、尾鷲において北村氏を討ち、荷坂峠までを領国とした。堀内氏は天正13年の秀吉による紀州統一に際して、大名として領域を認められた。その結果、紀伊と伊勢は荷坂峠が国境と定まった。 まとめ 古代の国境:尾根(山岳)による境界と河川を使った境界があるが、尾根を使った大和・紀伊と大和・伊勢さらに伊勢・志摩の国境は、現在まで安定した境界であったと推測される。河川や浦が卓越する紀伊・志摩間の国境は無住の空間が広がり、自然の境界となっていたと考えられる。古墳は那智勝浦町の前方後円墳1基をのぞくと、すさみ町から紀伊長島町の間120kmは古墳が存在しない。10世紀の「和名抄」の郷名を見ると英虞郡二色郷(錦)と牟婁郡三前郷(潮岬)の間には、2つの神戸郷と余部郷が見られるに過ぎず、50戸に編成できない分散的な集落が見られるに過ぎない。半島の先端部は、居住者の少ない辺境であったことを示している。中世の南北朝期の合戦や戦国期の戦乱によって、戦国大名の領域が定まり、それが近世初頭に国境となった。紀伊国牟婁郡が大きく東北へ広がり、伊勢国が志摩国英虞郡を取り込んだ。大和の南端部と紀伊国が河川を境界としているのをのぞくと、いずれも山の峰を利用した安定した境界線である。明治初期に県域の設定が行われたが、近世には紀伊半島を取り巻く紀伊・伊勢国は紀州藩(徳川藩)であった。紀州藩を分割して和歌山県と三重県に分割するとき、安定した自然境界、県庁所在地からの距離を考慮して、熊野川が県境に選ばれたと推測している。
著者
岩間 英夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100103, 2017 (Released:2017-05-03)

1.はじめに 発表者は、日本における産業地域社会の形成と内部構造をまとめ、2009年に公刊した。企業城下町に特色を持つといわれる日本において明らかとなったことは、世界の一般性に通じるのであろうか。この解明には、最小限、世界の産業革命発祥地で近代工業の原点である、イギリスのマンチェスターとの比較研究が重要となる。マンチェスターの事例研究については、2016年日本地理学会春季学術大会(早稲田大学)において発表した。本研究の目的は、マンチェスターと、同じ綿工業からスタートした尼崎、ならびに日本の主要な産業地域社会との比較研究より、工業の発展に伴う産業地域社会の形成と内部構造、内的要因、内部構造の発達モデルと発達メカニズムを明らかにする。 1極型とは事業所の事務所を中心に生産、商業・サ-ビス、居住の3機能が1事業所1工場で構成されるものをさす。1核心型とは、日本においては1事業所当たり従業員が1900年代は2000名以上、1920年代からは4000名以上とした。マンチェスターは1760年代からと日本より120年早いため、一応、1000名以上とする。2.産業地域社会の形成と内部構造 マンチェスターと尼崎の工業地域の発達段階は、両地域とも、近代工業創設期から形成期、確立期、成熟期、後退期、再生・変革期の過程を歩んだ。工業地域社会の内部構造は、一極型から多極型の単一工業地域、一核心・多極型から二核心・多極型の複合工業地域、多核心・多極型の総合工業地域の発達段階を経た(表1)。これらは、日本で捉えた場合も同じ展開である(表2)。 産業地域社会の形成は、3段階を経る。第1に、産業革命時の未熟な段階にあっては、商業・金融資本などの支援を必要とするため、工業地域社会は既存産業地域社会に付随して成長した。工業地域社会は、各企業の1極型が単位となって事務所を中心に工場の生産機能、商業・サービス機能は金融・商業のある市街地に依存し、居住機能は旧市街地・工場周辺・郊外に展開した。日本の事例では、既存集落からでは岡谷、相生など、都市部では芝浦、尼崎、宇部、四日市、浜松などがこれに該当する 第2に、産業資本が確立すると、マンチェスターのトラフォード地区の工業団地に象徴されるように、新開地に独自の工業地域社会を形成した。そこには、一極型を基本とする単一、複合、総合工業地域を形成し、事務所を中心とする工場(群)の生産地域、その周辺に商業地域、外方に住宅地域からなる、同心円状の工業地域社会を展開した。この独自に工業地域社会が展開した形態は、日本では企業城下町、臨海コンビナートにおいて典型的である。即ち、新開地に工業が立地した八幡、室蘭、日立、豊田などの企業城下町、川崎、水島、君津などの臨海コンビナートが該当する。 第3に、工業地域社会の発展に伴って、商業・サービス機能地域に行政、商店街、関連産業などの関連地域社会が付帯し、工業を中心とした産業地域社会、工業都市の性格を強めた。 以上のように、発展した時代と3機能の混在状況は異なるが、マンチェスター、尼崎・日本の工業は、基本的に、同様な産業地域社会の形成メカニズムとその内部構造を展開して共通し、世界の一般性を有する。日本において企業城下町として特異に映ったのは、日本が導入した1880年代当時、マンチェスターは成熟期の段階に達していた。この120年のギャップに追い着くため、日本は官営、財閥、大企業の形態を優先させ、軽・重化学工業、3機能からなる工業地域社会の形態、工業地帯の造成にいたるまで精選して一気に導入を図ったことに起因する。これは、後発型の工業国に共通する傾向といえる。   3.工業地域社会形成の内的要因 工業地域社会形成の内的要因は経営者および管理・技術集団である。特に、工業においては機械を発明し、機械化を成功させ、管理・技術面を推進させた管理・技術集団の存在と役割が重要である。 以下、後発型で短期間に工業国となったが故に解明が容易であった日本の分析をもって、工業地域社会の発達モデル、発達メカニズムを示す。   4.工業地域社会の内部構造発達モデル 工業地域社会の中心に位置したのが事業所の事務所であった(図1)。表2に基づいて、日本における工業地域社会形成の内部構造発達モデルを作製した(図2)。   5.工業地域社会における内部構造の発達メカニズム 工業地域社会における内部構造の発達メカニズム(工業都市化)は、企業の生産機能拡大に伴う3機能の作用によって生じる「重層・分化のメカニズム」である。その結果、企業の事務所を中心に生産地域、商業地域、住宅地域の圏構造に分化した。   参考文献 岩間英夫2009.『日本の産業地域社会形成』古今書院.
著者
清水 克志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100315, 2017 (Released:2017-05-03)

1.はじめに ハクサイは明治前期に中国から日本へ導入された外来野菜である.一般に外来野菜は,「農商務省統計表」に記載が始まる明治後期以前における普及状況の把握が容易ではない.さらにハクサイに限って言えば,①欧米諸国から導入された「西洋野菜」と比較して導入政策が消極的であったことに加え,②明治後期以降も1941(昭和16)年に至るまで,統計では在来ツケナ類などとともに「漬菜」として一括集計されていたことなどにより,普及の概略を掴むことさえ難しい. 本報告では,ハクサイの普及状況について,量的把握が困難な事情を踏まえ,大正期を中心とした近代における『大日本農会報』や『日本園芸雑誌』,『主婦之友』などの雑誌類,栽培技術書などの記述を主たる分析対象とし,当時におけるハクサイ需要の高まりと種子の供給状況を突き合わせることを通して,明らかにすることを目的とする.2.普及阻害要因としての「交雑」問題明治前期には,政府によって山東系のハクサイ品種の導入が試みられたものの,それは内務省勧業寮と愛知県に限定されていた.ハクサイを結球させることが困難であったため,内務省では試作栽培を断念し,唯一試作栽培を継続した愛知県においても結球が完全なハクサイの種子を採種するまでに約10年の歳月を要した.結球種のハクサイは,「脆軟」で「美味」なものと認識されながらも,明治前期時点における栽培技術水準では「交雑」問題が阻害要因となり,栽培は困難とされ,広く周知されるまでには至らなかった.そしてこの時点では,結球種のハクサイよりもむしろ,栽培や採種が容易な非結球種の山東菜がいち早く周知され,三河島菜などの在来ツケナより優れた品質のツケナとして局地的に普及していった. 日清戦争に出征した軍人が,中国大陸においてハクサイを実際に見たり食べたりしたことを契機として,茨城県,宮城県などで芝罘種の種子が導入されたが,この時点でも「交雑」問題によって,ハクサイの栽培は困難な状況が続いた.日露戦争後の関東州の領有によって,中国や朝鮮にハクサイ種子を採種し日本へ輸出販売する専門業者が成立したため,購入種子によるハクサイの栽培が可能となった.しかしながら,輸入種子が高価であることや粗悪品を販売する悪徳業者の多発など,新たな問題が生じた.3.大正期におけるハクサイ需要の高まり 大正期に入ると,香川喜六の『結球白菜』(1914年;福岡),矢澤泰助の『結球白菜之増収法』(1916年;千葉),川村九淵の『学理実験結球白菜栽培秘訣』(1918年;東京)など,ハクサイの有用性を説き栽培を奨励する栽培技術書が相次いで刊行された.これら栽培技術書では,①ハクサイの「結球性」に起因する食味の良さと軟白さ,多収性と貯蔵性,寄生虫の害からの安全性などが高く評価されていたことに加え,②純良な種子を吟味して入手することが必要不可欠な条件であること,の2点に著述の力点が置かれていたことが読み取れる. 一方,『大日本農会報』には,1918(大正7)年以降,種苗業者による結球ハクサイ種子の広告の掲載が確認できるようになる.野菜類全般の種子を対象とする業者の広告は明治期からみられ,その中にハクサイが含まれるものも散見されたが,大正期に入ってハクサイ種子専門の業者が登場してくる事実は,ハクサイ種子に対する需要の高さと採種に求められる専門技術の高さを示すものであろう.また種子の価格を比較すると,結球種が半結球種や非結球種に比べ非常に高価であったことも確認できる. 4.育採種技術の確立とハクサイ生産の進展 大正期も後半になると,ハクサイ栽培に対する需要を背景に,日本国内でハクサイの育採種が試みられ,宮城県や愛知県を中心に各地で国産品種が育成された.その担い手の多くは一般的な篤農家ではなく,より専門的な知識や技術,設備を備えた種苗業者や公的機関であった. 「交雑」という阻害要因が解消され,ハクサイ生産の前提となる種子の供給体制が整ったことにより,昭和戦前期には国産品種の育成地を中心に,ハクサイ産地の成立が急速に進んだ.都市大衆層の主婦を主たる購読者層とする『主婦之友』に,ハクサイ料理に関する記事が初見されるのは1922(大正11)年である.このことは,東京市場において宮城などの産地からハクサイの入荷が本格化する1924年とほぼ時期を同じくして,料理記事が登場していることを意味している.調理法の記事数をみると煮物や汁の実,鍋物などの日常的な家庭料理の惣菜の割合が高い.漬物材料として所与の需要があったハクサイは,同時期の都市大衆層の形成とも連動しつつ,その食生活の中に急速に浸透していったことが指摘できる.
著者
山本 晴彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100025, 2017 (Released:2017-05-03)

軍用気象学への認識の高まりを受け、軍用気象会が昭和5年に設立されたが、陸軍の砲工・航空の両学校では必要に応じて(陸士卒)を中央気象台に短期派遣し、気象に関する講習を受講させていた。昭和6年からは、陸軍航空本部に教室を整備し、近接する中央気象台に依嘱して気象勤務要員の養成が行われた。第1・2回(昭和7・8年)各8名(大尉・中尉)が修学し、戦中期の陸軍気象部の中核を担う人材が養成された。 昭和10年8月、陸軍砲工学校内に附設の気象部が設立され、軍用気象学をはじめ、軍用気象勤務、気象観測、気象部隊の編成・装備・運用等の研究、軍用気象器材の研究・検定、兵要気象の調査、気象統計、兵要誌の編纂、気象要員の養成が主な業務であった。武官の職員には、武や古林などの気象勤務要員の教育を受けた将校も携わった。外部から気象学、物理学、数学関係の権威者を専任教官として講師に任命した。第1期生(昭和11年)は、荻洲博之、田村高、夕部恒雄、泉清水、中川勇の5名が入学し、修了後は気象隊、関東軍司令部、陸軍気象部、南方軍気象部等に派遣された。第2期生(昭和12年)も久徳通夫高他5名、第3期(昭和13年)は蕃建弘他4名の大尉や中尉が連隊等から派遣されている。 昭和13年4月、陸軍気象部令が公布され、陸軍砲工学校気象部が廃止されて陸軍気象部が創設された。「兵要気象に関する研究、調査、統計其の他の気象勤務を掌り且気象器材の研究及試験並に航空兵器に関する気象器材の審査を行ふ」と定められ、「各兵科(憲兵科を除く)将校以下の学生に気象勤務に必要なる学術を教育を行ふ」とされ、「必要に応じ陸軍気象部の出張所を配置する」とされた。組織は、部長以下、総務課(研究班、統計班、検定班を含む)、第一課(観測班、予報班、通信班)、第二課(学生班、技術員班、教材班)で構成され、気象観測所、飛行班も設けられた。ここでも、陸軍砲工学校気象部の出身者が班長を務め、嘱託として中央気象台長の岡田武松をはじめ、気象技師、著名な気象学者などの名前も見られ、中央気象台の技師が技術将校として勤務した。戦時下で企画院は気象協議会を設立し、陸軍・海軍と中央気象台・外地気象台の緊密な連繋、さらには合同勤務が図られた。昭和16年7月には、陸軍中央気象部が臨時編成され、陸軍気象部長が陸軍中央気象部を兼務することになり、昭和19年5月には第三課(気象器材の検定等)が設けられた。さらに、気象教育を行う部署を分離して陸軍気象部の下に陸軍気象教育部を独立させ、福生飛行場に配置した。終戦時には、総務課200名、第一課150名、第二課1,800名、第三課200名が勤務していた。 陸軍気象部では、例えば昭和15年には甲種学生20名、乙種学生80名、甲種幹部候補生92名、乙種幹部候補生67名に対して11カ月から5か月の期間で延べ259名の気象将校の養成が計画・実施されていた。また、中等学校4年終了以上の学力を有する者を採用し、昭和14年からの2年間だけでも675名もの気象技術要員を4か月で養成する計画を立て、外地の気象隊や関東軍気象部に派遣していた。戦地拡大に伴う気象部隊の兵員補充、陸軍中央気象部での気象教育、本土気象業務の維持のため、鈴鹿に第一気象連隊が創設された。昭和19年に入るとさらに気象部隊の増強が急務となり、第二課を改編して前述した陸軍気象教育部を新設し、新たに航空学生、船舶学生、少年飛行兵の教育を開始し、気象技術要員の教育も継続された。養成された気象将校や気象技術要員は、支那に展開した気象部(後に野戦気象隊、さらに気象隊に改称)をはじめ、外地に展開した気象部隊に派遣された。 第一課では、兵要気象、気象器材の研究・考案・設計、試作・試験が行われ、気象観測所の開設や気象部隊の移動にも十分に耐え得る改良が求められた。第二課では、高層気流・ラジオゾンデ観測と改良、ガス気象観測、台湾での熱地気象観測などが実施され、中央気象台や海軍の水路部などの測器との温度器差も測定された。さらに、気象勤務教程や気象部隊戦闘規範を作成して気象勤務が詳細に定められ、現地で実施されていた。陸軍気象部では作戦用の膨大な現地気象資料、陸軍気象部月報、現地の気象部隊でも各種の気象資料や気象月報が作成されていた。 終戦により膨大な陸軍気象部や気象部隊の書類・資料は機密保持の目的で大部分が焼却された。連合軍司令部は陸軍気象部残務整理委員会を立ち上げ、陸軍気象機関の指揮系統・編成、気象部隊の分担業務、気象器材の製作会社、陸軍気象部の研究調査内容、陸軍と海軍における気象勤務の協力状況、中央気象台との関係、さらには予報の種類、観測・予報技術など120頁にわたる報告書を作成させた。なお、終戦時に内地・外地に展開していた気象要員の総数は2万7千名にも達していた。
著者
仁平 裕太 山田 育穂 関口 達也
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100228, 2017 (Released:2017-05-03)

近年の日本では,緑被率に代わり,緑視率が人の意識に与える影響についての注目が高まってきている.特に,建物が密集する都心部において緑を確保することの重要性は高く,実際に,緑の基本計画に緑視率向上の政策が示されている自治体も存在する.また,緑視率が人に与える影響についての研究も複数存在するが,植生の配置が人々の意識に与える影響を充分に評価できているとは言いがたい.そこで本稿では,都市部における植生の量・配置を定量的に指標化し,人々の景観に対する主観的評価に与える影響を分析する.そして、得られた知見を適切な植生配置の一助とすることを目的とする.重回帰分析を用いて植生の量と配置が人々の評価に与える影響について分析した結果,目線上部にある植生は,高評価につながることが示された.つまり,植生を多く配置できない場合,中木や高木を中心に植栽を整備する方が景観上好ましいことが示唆された.
著者
山元 貴継 坪井 宏晃
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100237, 2017 (Released:2017-05-03)

報告の背景と目的 「字(小字)」および「字名」は,多くの地域で地区区分および小地名として用いられてきた.そして,その多くは1899(明治22)年前後の「明治の大合併」以前の村の領域や村名を引き継いでいる,といったイメージがもたれやすい.しかしながらこれまで,「字名」自体の残存状況については各地で多くの言及がみられる一方で,それらの「字」が示す領域までもがどのように継承されているのかについての検討は,管見の限り多くはない. そこで今回の報告では,一見すると「字」がよく残されているように映る愛知県西春日井郡を対象に,とくに同郡において比較的よく残されている「土地宝典」などに記された昭和初期の「字」の名称およびその領域が,対応する現行地区名およびその領域とどのような対応関係を見せているのかについて,例えば両者の重複面積などを算出することによる検討を紹介する.愛知県西春日井郡と「土地宝典」 分析対象地域とした旧師勝町(現北名古屋市)および豊山町が属する西春日井郡は,名古屋大都市圏の中心都市である名古屋市の北側にあり,現在でこそ同市郊外のベットタウンとして大きく発展している.しかしながら一帯は,第二次世界大戦以前には,庄内川北岸に広がる低地に集落が点在し,その周囲には主に水田が展開するといった農耕地帯であった.その後1944(昭和19)年には,このうち豊山町の東部に陸軍小牧飛行場(現名古屋飛行場)が開設されている。 そして同郡内の各町村については,昭和初期(昭和9(1934)年前後)に,地籍図の一種である「土地宝典」が多く作製された.これら「土地宝典」は,当時の地籍図に各地筆の地目や面積の情報を加筆して作製されたものである.その図面を画像ファイル化し,幾何補正して現行1:10,000地形図にレイヤーとして重ねることによって,現在では失われてしまった「字」も含めて,かつての「字」の領域が現在のどこに相当するのかが詳細に明らかになる.西春日井郡における旧「字名」の残存状況 まず,「土地宝典」記載の昭和初期の各「字」名自体は現在,豊山町側では依然として一定数がそのまま地区名として用いられているのに対し,旧師勝町側では,旧「字名」に旧「大字名」を冠し,連称化した地区名と,旧「字名」の一部を改変した地区名が多く採用されている. こうした旧自治体による対応の違いに加えて,豊山町側では,小牧飛行場の敷地となり,現在では「字」の存在自体が不明となった範囲がみられる.西春日井郡における旧「字」域と現行地区域との関係  一方で,「土地宝典」図面の幾何補正により判明した旧「字」域と,その「字名」を何らかの形で引き継いでいる形となる現行地区(「字」を含む)の領域とを,その位置に加えて面積的にも比較した結果,かつて集落であった範囲において,旧「字」域と対応する現行地区域とが面積的にも高い割合で重複することが明らかとなった(図).また意外にも,集落の中心から遠く離れ,かつて水田などが展開していた範囲においても,旧「字」域と対応する現行地区域とが面積的にも比較的一致した. 対して注目されたのは,かつての集落のすぐ外周となる範囲であった.同範囲では,一見すると旧「字」に対応する現行地区(「字」を含む)がみられるものの,両者の領域の面積的な重複は少なく,いわば,かつての旧「字」域からいくぶん外れた範囲となった現行地区が旧「字名」を引き継ぐ地名を名乗っている形となっているところがみられやすかった.旧「字(小字)域」変化のプロセス 「字名」だけでなくその領域にも着目した今回の分析からは,とくにかつての集落のすぐ外周に相当する範囲において,「字名」自体は現在まで残されていても,その領域は変化してしまっているところが少なくないことが指摘された.そうした「字」は,都市化に伴い宅地の範囲を拡大させたもともとの集落の属する「字」にその領域の一部を譲る代わりに,さらに外側の「字」域の一部を編入するといった「玉突き」状の字域整理を行った結果,旧字域とその字域を引き継いでいるはずの現行地区(「字」を含む)域とのずれが大きくなってしまったことが想定された. 今回試みたような分析手法をもとに,今後各地で,「字(小字)」の残存状況についての再検討が進むことを期待したい.
著者
野中 健一 柳原 博之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100168, 2017 (Released:2017-05-03)

I はじめに 岐阜県東濃地域の伝統的な地域文化資源利用の一つにクロスズメバチ(当地の方言で「ヘボ」)食文化がある.当地域のヘボ食文化は,秋に野山で巣を採取し(ヘボ追い),巣中の幼虫やサナギ(蜂の子)を蜂の子飯(ヘボ飯)やゴヘイモチなどで賞味するだけでなく,夏のうちにまだ小さな巣を採取して自家で飼育することもあり,一堂に会して巣箱を開き育てた巣の大きさを競うイベントも開催されている.このような慣行を持続的に発展させようと1990年代に各地で愛好会が設立され,さらにそれらが集まった全国地蜂連合会が組織されて現在に至っている. この慣行を続けていくためには,次世代の者たちが継承していく必要があるが,現在の主な担い手の次世代以降にはそれに興味関心を持つ者が少なく,その存続が危惧されている.そこで,地域資源を生かすことをテーマとして,知識・技術の継承に高校生がかかわることにより,その活動の活性化と次世代の興味を高めるための方策を講ずることが可能になるであろうと,岐阜県立恵那農業高校(恵那市に所在)でクラブ(HEBO倶楽部)が2016年に設立された. 本発表は,高校生の関心からクラブ設立への動きと部員の活動経験を明らかにし,地域文化資源を活用した課題解決型学習の成果とその実践が地域にもたらす効果を検討する.   Ⅱ クラブ活動実践 (1)クラブ設立 2015年度にヘボ食文化に関心をもって課題学習に取り組んだ一生徒が恵那市串原や全国地蜂連合会の活動に参加しながら地域との連携関係を形成できた.そこで,地域で重要でありながら失われつつある地域文化資源を特産品として活用した地域の活性化を目的に,2016年度より高校の正式なクラブ活動としてHEBO倶楽部が設立され,柳原が顧問に就き,初年度は3年生4名,2年生5名が参加した. (2)ヘボ食文化の実地体験 串原・中津川市付知町の愛好会および全国地蜂連合会会員の協力・指導により,ヘボ追いを構成する餌付け・餌持たせ・追跡・巣掘り出し,飼育,蜂の子の巣盤からの抜き取り(ヘボ抜き)に至る全工程を体験し習得に努めた.全部員初めての経験であったが,指導を受けて実践できるようになった.そしてヘボ食文化のおもしろさを実感し,将来に残す必要性があることを強く感じた. 食用に関しては,地域の味付けで食品製造販売を行う串原田舎じまんの会からヘボの甘露煮,ヘボ飯の作成方法を習い,基本的な調理法を理解した. さらにイベントを通じて,各地のヘボ飯などの食べ比べを行い,ヘボの成虫を入れる量,醤油の量,薬味の有無など調理方法に地域差のあることを学んだ. (3)地域文化情報の発信と地域との協働 生徒は,さまざまな体験・活動で得た知識と経験を生かして情報発信を行った.東京大学癒やしの森研究所へ地蜂連合会会員らとヘボ生態調査・駆除に出向いた折には,同大の実習授業の受講生らに,自分たちが学んできたヘボ追い,ヘボ抜き,調理方法を伝授した.また,小学生を対象にしたヘボ抜き体験,ヘボに関する企画展の実施等を行い,他地域や異世代への情報発信を行った. 秋期の串原や付知町でのヘボの巣コンテストではスタッフとして協力した.担い手が減少する中で若い世代の参加は運営の補助のみならず,参加者らに活力を与える上でも効果的であった. 学校祭や地域イベントでは,生徒は,ヘボ追いをはじめ自然と親しむ・自然資源を活用する魅力をテーマとした発表を行い,あわせて来場者に対してアンケート調査・分析を実施し,活動をとおして同世代の高校生への知識・技術の継承と,地域への普及を目指して活動した.また,ヘボの知識だけではなく交流をとおして地域理解を深めると共に世代を超えたコミュニケーションを実施した.これらの成果により導き出された地域活性化の提案は「田舎力甲子園2016地域活性化策コンテスト」で最優秀賞を受賞し,ヘボ食文化の意義と可能性を全国に向けて知らしめることができた.   Ⅲ まとめと今後の課題 今回の実践において,高校生が親世代からは学べない地域の文化を学び,その大切さに気づき,主体的な学習の向上と社会実践の意識,外部社会とのコミュニケーション力向上がみられた。いっぽう,愛好家の方々には,高校生の参加により自己の趣味から「文化の継承」という目標が生まれ,組織的で意欲的な活動になったと思われる.地域文化の知識・技術の継承やその食文化の保存に若い世代の参加は大きな影響を与えることがわかった. 生徒のアンケート調査により当地では中年世代よりも若い世代の方がヘボ食に興味関心をもっているが明らかになったことから,この世代をターゲットにして新たな展開をすることが地域文化の継承に重要だと考えられる.
著者
日野 正輝
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100046, 2017 (Released:2017-05-03)

用語「広域中心都市」、「地方中枢都市」、「札仙広福」の登場と定着 日野正輝(中国学園大学)1.はじめに 戦後の札幌、仙台、広島、福岡の4都市の広域中心性の確立と急成長は、人口・経済力の東京一極集中とともに、20世紀後半の日本の都市化および都市システムの構造的変化を特徴づける特筆すべき現象であった。しかし、上記4都市を特定した統一した用語は存在しない。広域中心都市、地方中枢都市、札仙広福の3用語が比較的広く使用される用語としてある。 本報告は、上記した3つの用語がいつ頃誰によって、あるいはどの機関によって使われはじめ、それがどのように広まったのかを調査したものである。2. 広域中心都市   用語「広域中心都市」は、北川(1962)によって六大都市の下に位置するものの、他の県庁所在都市とは区別される新しい上位都市階層として提唱された用語である(吉田、1973)。北川は、ドイツの地理学者シェラーおよび恩師であった米倉二郎らの示唆を得て、ドイツの都市の階層体系にあるLandstadtに相当するものとして、広域中心都市の用語を使用したと言う。また、服部(1967)および二神(1970)も、1960年代後半にすでに上記4都市を指す用語として地方中核都市などの呼称が見られたが、国家中心都市に次ぐ都市階層として広域中心都市の表現を使用した。さらに、1969年日本地理学会秋季学術大会でシンポジウム「広域中心都市」が開催され、その成果が木内信蔵・田辺健一編『広域中心都市』(1971)として刊行された。こうした経緯によって地理学の分野においては、用語「広域中心都市」を定着したとみてよい。  しかし、「広域中心都市」は早くに登場したが、地理学以外の分野に普及することはなかった。全国総合開発計画では、広域中心都市に相当する都市階層の認識があったが、その表現は見られなかった。また、時期は1985年以降に限られるが、広島市市議会の議事録から、「広域中心都市」の出現回数を見ると、わずか1件のみであった。「地方中枢都市」の出現回数が116件であったことから、広域中心都市広島おいてさえ、当該用語はほとんど用いられることがなかったと判断される。3. 地方中枢都市   地方中枢都市は、中枢と言う表現からすると、大都市の成長は中枢管理機能の集積にあるとした中枢管理機能説との関連が認められるが、中枢管理機能をクロースアップした新全国総合開発計画において使用されていない。同計画では、7大中核都市、地方中核都市と言った表現が使用されていた。1977年閣議決定を見た第三次全国総合開発計画においてさえ、地方ブロックの中心都市と言いた表現が用いられ、地方中枢都市の用語は見られなかった。一方、国土庁に設けられた地方都市問題懇談会の地方都市の整備に関する中間報告(1976)において、地方中枢都市、地方中核都市、地域中心都市、地方中小都市の階層区分がなされた。この中間報告によって、都市の一般的な階層区分と各階層の名称が受容されることになったと推察される。その結果、第四次全国総合開発計画においては地方中枢都市の用語が使用されている。なお、地方中枢都市の用語は、1981年発行の中学社会科地理分野の教科書にも登場した。4. 札仙広福札   札仙広福は上記2用語に比べると後になって登場した表現である。上記した広島市議会の議事録において出現する時期は第五次全国総合開発計画策定の1980年代末から1990年代前半に集中している。これには、上記計画に札仙広福の4都市が自らの意向を反映させるために連携して運動した時期にあたる。ただ、どの機関が最初に当該用語を使用したのかは目下のところ不明である。1990年代はじめに札仙広福を冠したシンポジウムを重ねて開催し、当該用語の普及に貢献した櫟本(1991)によると、広島市では4都市の比較をしばしば行っていたが、そのなかで自然と出てきた表現ではなかったかと言う。付記今回の調査において下記の方々から貴重なご教示とご便宜を図って頂いた。ここに記して感謝に意を表します。北川建次、今野修平、櫟本功、松田智仁、宮本茂、小笠原憲一、渡辺修、寺田智哉(敬称略)。
著者
山神 達也
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100216, 2017 (Released:2017-05-03)

Ⅰ はじめに本稿の目的は,2010年の近畿地方における通勤流動の基本的な動向を把握することにある。近畿地方中部は京阪神大都市圏で占められ,都市圏多核化の進展を検証するうえで重要な地域である。また,近畿地方の北部や南部における「平成の大合併」以降の通勤流動の検討は,過疎地域における生活環境を考えていくうえで重要性が高いであろう。Ⅱ 近畿地方における通勤流動5%以上の通勤率で就業者が流出する市町村がどれほどあるかを示した図1をみると,5%以上の通勤率を示す市町村がないものとして,京都・大阪・姫路・和歌山の各市に加え,京都府と兵庫県の北部や奈良県南部の市町村などが挙げられる。また,大阪市周辺には通勤流出先の少ないリング状の地域がある(大阪圏内帯)。そして,大阪圏内帯を取り巻いて,通勤流出先の多い地域がこれもリング状に広がる(大阪圏外帯)。ただし,大阪圏外帯では,通勤流出先の少ないものが混在する。こうした二重のリング状の地域以外で通勤流出先の多い地域として,琵琶湖南岸,姫路市周辺,和歌山市南方の広川町周辺が挙げられるが,これらの地域以外では,概して通勤流出先が少ない。次に,どれほどの市町村から5%以上の通勤率で就業者を受け入れているのかを検討する。5%以上の通勤率で通勤流出先となった市町村数を地図化した図2をみると,京都・大阪・神戸の3市に加えて各県の県庁所在都市や姫路市,そしてこれらに隣接する市で多い。さらに,琵琶湖南岸・東岸や大阪府南部,和歌山県の中部・南部では,一部の市町村が多くの市町村からの通勤流出先となっている。一方,近畿地方の北部や兵庫県西部,奈良県南部,和歌山県南端部では,3つ以上の市町村から通勤流出先となっている市町村の存在しない地域が広がる。以上を整理すると,京都・大阪・姫路・和歌山の各市は雇用の中心として,また神戸市や奈良市は大阪市に従属するものの,いずれも多くの市町村から就業者を集めている。次に大阪圏内帯では,大阪市への通勤流出が多いものの,周辺市町村や大阪圏外帯からの通勤流出先となっている。そして大阪圏外帯では,大阪市とともに大阪圏内帯や京都市・神戸市・奈良市などへの通勤流出がみられ,流出先が多様化している。一方,近畿地方の北部や南部では市町村界をまたぐ通勤は少ないものの,雇用の中心となる都市が存在することが多い。 Ⅲ 考察近畿地方中部では市町村界をまたぐ通勤流動が活発である。そのなかで,京都市や大阪市,姫路市,和歌山市は明確な雇用の中心として,神戸市と奈良市は大阪市への通勤流出がみられながらも,多くの市町村からの通勤流入がみられた。また,琵琶湖南岸地域や関西国際空港周辺なども多くの市町村からの通勤流入がみられ,都市圏多核化の進展が垣間見られる。加えて,大阪圏内帯でも多くの市町村からの通勤流入がみられ,大阪市からの雇用の場の溢れ出しが推察される。このように,近畿地方中部では,郊外における雇用の核の存在による集中的多核化ととともに,雇用の場の溢れだしによる中心都市隣接市への通勤がみられる。一方,近畿地方の北部や南部では,市町村をまたぐ通勤は少ない。これらの地域では市町村の面積が大きく,市町村単位での通勤流動の分析に市町村合併の影響が現れている可能性があり,その点を検証するため,市町村合併前後で同様の分析を行う必要がある。ただし,このような地域においても,彦根市や御坊市,田辺市など,周辺市町村からの通勤流出先となっている都市が存在し,これらの都市は,過疎化が進展する地域における雇用の中心として機能している。
著者
島倉 聖朗
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100340, 2017 (Released:2017-05-03)

1.研究の目的 日本における西洋音楽の受容ついては,他の多くの西洋文化と同様に,当時の交通事情に影響を受け,海外に向けた出入り口として,横浜,神戸といった港湾都市は独自の存在感をもっていた.横浜,神戸は,現在ともに「ジャズの街」や「日本のジャズ発祥の地」と標榜されており,どちらもジャズ輸入時期にその窓口となったと言われている.大正初期に横浜からサンフランシスコへの国内資本による太平洋航路において,客船内で音楽演奏をする,いわゆる「船の楽士」が日本へジャズをもたらしたことは,音楽史の分野での先行研究では明らかにされているが,地理学的視点で捉えた研究はほとんどない. そこで,本研究では,その「船の楽士」の活動に着目して,彼らの果たした役割,演奏技術の移転,その後の職業音楽家としての活動の場といった視点から,西洋音楽受容と横浜の関係性を明らかにすることを目的とする.2. 「船の楽士」の始まり 1912年(大正元年)8月,橫浜港よりサンフランシスコに向けて出航した東洋汽船の客船に,東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)の卒業生らが,5人の小編成楽団を組み,主に昼食・夕食時に演奏した.私立の音楽学校は就職先を確保することが困難な時代,卒業生が外国航路の客船に乗船し,乗船客向けに演奏を提供できれば,働きながらも海外で新しい音楽を直接見聞できるということであった.彼らは「船の楽士」と呼ばれ,彼らの活動は,メンバーを変えながら大正年間を通じ,さらに昭和16年までの約30年間に渡った.クラシック,後にジャズと呼ばれるダンス音楽など幅広い音楽を吸収し,「船の楽士」を通じて日本国内に広まった.3. 演奏技術の習得と陸に上がった楽士の活動       サンフランシスコでは,楽譜,楽器,レコードを購入し,それらを日本へ持ち帰ったと同時に,停泊期間中に現地ホテルの専属楽団からの演奏指導,他国の客船楽団との交流を通じて新しい音楽技能を身につけた.初期の「船の楽士」は,陸にあがったのち,乗船時代の経験を生かし,東京銀座の活動写真館での無声映画伴奏をはじめ,帝国ホテルなどにおけるサロン音楽演奏のオーケストラのメンバー,浅草の劇場でのオペラ演奏楽団員,横浜鶴見にあった花月園ダンスホールの専属バンドのメンバーとして活動した.これが昭和に入ると,カフェーやダンスホールなどでのジャズ演奏家に転じるものも出てきて,日本ジャズ創世期を担った.4. 結論「船の楽士」は,現在でいうところの「ジャズ」を完成された形で輸入したわけではなく,その時々に流行したダンス音楽の影響を受け,ジャズに転じたことが明らかになった.また,横浜は,海外からの文化の出入り口であったが,外国人が文化をもたらすだけでなく,横浜港から海外に出て行き,帰ってきた日本人によって海外の文化が日本にもたらす場としての二面性を持っていたことも明らかになった.〔文献〕大森盛太郎(1986) 『日本の洋楽1』新門出版社瀬川昌久+柴田浩一(2015) 『日本のジャズは橫浜から始まった』一般社団法人ジャズ喫茶ちぐさ・吉田衛記念館武石みどり(2006) 「ハタノ・オーケストラの実態と功績」お茶の水音楽論集 2006-12 お茶の水女子大学
著者
寺尾 徹 村田 文絵 山根 悠介 木口 雅司 福島 あずさ 田上 雅浩 林 泰一 松本 淳
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100300, 2017 (Released:2017-05-03)

1. はじめにインド亜大陸北東部は,陸上における世界的な豪雨域である。とりわけメガラヤ山脈南斜面には年降水量10000mmを大きく超える地域が広がり,世界の年間雨量極値(Cherrapunjee, 26,461mm, 1860年8月~1861年7月)を持つ(木口と沖, 2010)。この領域の降水は、アジアモンスーン循環を駆動する熱源であり、当該地域に住む人々の生活に本質的な影響を与えている。われわれの研究グループは、現地の観測網の充実による降水過程の解明、過去のデータを取得、活用することによる経験的な知見の集積を進めてきた。災害や農業、公衆衛生をはじめとしたさまざまな人間活動との関係を研究してきた。 2. 観測ネットワークわれわれの研究グループは、2004年以降,当該地域に雨量計ネットワークの展開を開始しており、2007年頃までに雨量計は40台に達し、現在まで維持管理している(図1)。自動気象観測装置も活用してきた。現地気象局等との協力関係を発展させ、過去の各気象局の持つデータの収集を進めてきた。 3. データレスキューインド亜大陸北東部のうち、英領インド東ベンガルおよびアッサムの一部は、1947年にパキスタン領となり、その後バングラデシュとして独立した。そのため、現インド気象局では降水量データのデジタル化がなされていない。バングラデシュ気象局もパキスタン独立以前のデータの管理をしていない。そのため、デジタルデータは1940年代以前が空白となっている。 英領インド気象局の観測は充実しており、バングラデシュでもっとも雨の多いSylhet域の降水観測点は、現バングラデシュ気象局の観測点の数倍ある。バングラデシュ最多雨地点とされるLalakhalには現気象局の観測地点がなく、旧いデータも保管されていない。 われわれの、データレスキューで得られた1891-1942年のSylhetとLalakhalの雨量データから、この二地点の当時の降水量の差を解析した結果、Lalakhalの方が30%近く月降水量が多いことが確かめられている。 当日は、われわれの研究成果を概観し、データレスキューの現状と、われわれの雨量計の観測データやリモートセンシングデータなどを活用した、初期的な解析結果をお示しする。 図1インド亜大陸北東部に設置した雨量計観測網。雨量計は○印で表されている。参考文献木口雅司・沖大幹 2010. 世界・日本における雨量極地記録. 水文・水資源学会誌 23: 231-247.
著者
後藤 拓也
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100308, 2017 (Released:2017-05-03)

インドにおいては、1990年代以降の経済発展によって食肉生産量が顕著に増加し,全国的に畜産地域の形成が進んでいる。このような趨勢は,インドにおける「緑の革命」や「白い革命」になぞらえて,研究者らによって「ピンク革命」と呼ばれる。なかでもインドでは,牛肉や豚肉に比べて宗教的制約を受けにくい鶏肉の生産拡大が著しく,鶏肉部門は2005年に水牛肉部門を抜いて,インド最大の食肉部門へと成長した。このような状況にもかかわらず,インドの鶏肉産業についての研究は,インド人研究者らによる南インドを対象とした経営学的研究や,USDAによる報告などにとどまり,地理学的な視点に基づいた実証的研究は,いまだ十分に得られていないのが現状である。先行研究によれば,インドの鶏肉産業には南北で大きな地域的差異があり,養鶏業に適した諸条件を持つ南インドに比べて,養鶏業に有利でない北インドでは産地形成が遅れているという認識が一般的であった。ところが2000年代以降,北インドでも急速に産地形成が進み,ハリヤーナー州では全国的にも突出したブロイラー飼養羽数の増加率が認められる。   本研究では,①インドの鶏肉産業がどのようなメカニズムで発展し,南北間の地域的差異が形成されたのか,②もともと養鶏業に有利でないとされる北インドのハリヤーナー州において,いかなるメカニズムで鶏肉産業が発展したのか,③北インドの鶏肉生産を支えるハリヤーナー州のブロイラー養鶏地域(および養鶏農家)は,どのような存立基盤のもとで成り立っているのか,という3点を地理学的視点から明らかにしたい。  1990年代以降,インドの鶏肉産業を主導してきたのは,Hatcheriesと呼ばれる大手孵卵企業群である。これら大手孵卵企業は,Improvedと呼ばれるブロイラーの改良品種を1980年代に相次いで開発し,それらが1990~2000年代にインド全土に普及した。なかでも,インド最大手の孵卵企業Venkys社が開発した新品種Vencobbは,現在インドで生産されるブロイラーの約65%を占める。Venkysの支社が立地するハリヤーナー州ではこのVencobbの普及率が高く,これがブロイラー農家の生産性や収益性を向上させ,1990年代以降の急速な産地発展につながったことが窺える。   さらに,北インドの鶏肉産業が発展した背景として重要なのは,1992年におけるデリーでの鶏肉卸売市場(ガジプール市場)の開設である。このガジプール市場では現在,87の鶏肉卸売業者がブロイラーの生鳥集荷に携わっている。2015年12月に実施した聞き取り調査によれば,それら業者の大半がハリヤーナー州からの生鳥集荷に依存しており,ハリヤーナー州はデリー首都圏への鶏肉の一大供給拠点となっている。しかし多くの業者は,ナシックやムンバイなど1,200kmも離れた産地からブロイラーを集荷するなど,市場の集荷圏がきわめて広範囲に及んでいることも判明した。   ハリヤーナー州におけるブロイラー養鶏地域の実態を把握すべく,デリー近郊のグルガオン県に所在するブロイラー養鶏農家に対し,2016年2月に聞き取り調査を行った。その結果,殆どの農家がVenkys社の新品種Vencobbを導入しており,しかも多くの農家がこれまで複数回にわたって品種を変えるなど,生産性や収益性を求めて試行錯誤を行ってきたことが明らかになった。また対象農家の殆どが,2010年頃まではガジプール市場に生鳥を全量出荷していた。しかし近年,多くの農家がより良い販売条件を求めてローカル市場(グルガオン県マネサール)に出荷先をシフトしている。さらに,対象農家の殆どが州外からの出稼ぎ労働者にブロイラー飼養を担当させ,自らは野菜栽培に専念するなど,ブロイラー飼養が農業経営の一部に巧みに組み込まれていることが判明した。
著者
山本 晴彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100029, 2017 (Released:2017-05-03)

明治4年、兵部省海軍部に水路局が設置され、翌5年には海軍省水路局となっている。明治6年10月には芝飯倉に海軍観象台が創設され、気象の毎時観測が開始されている。水路局は水路寮への改称を経て、明治9年には再び海軍省水路局に改称されている。同年には『気象略表』が発行され、10月には水路局の所掌に観象が追加され、観象台事務専任が置かれている。明治13年には長崎と兵庫に海軍気象観測所が設けられ、海軍観象台では天気予報が開始されている。明治15年、内務、文部両省、水路局の気象観測報告を一元化して海軍観象台が取りまとめている。明治19年には海軍水路部官制により、海軍水路部に改称され、天文、気象および磁気観測、測器試験、警報等の業務が追加されている。しかし、明治21年には海軍観象台の天文・地磁気関係の業務が文部省に、気象業務ならびに海軍気象観測所が内務省に移管され、これ以後、気象観測事業は内務省の主管となり、海軍水路部は水路部に改称されている。なお、明治27年からは海岸(海軍)望楼、同30年からは鎮守府での気象観測も開始された。第一次世界大戦へ参戦した海軍は、委任統治した南洋群島で大正4年より臨時南洋群島防備隊による気象観測を開始したが、同9年には南洋庁が設置されたことにより、気象業務は南洋庁観測所に移管されている。一方、国内では横須賀に日本初の海軍航空隊が開設され、翌年には霞ヶ浦海軍航空隊が開隊している。この時期に水路部から日本近海気象図や北太平洋気象図が発行されている。大正9年の水路部令により海象観測は水路部第四課の所管となり、気象観測業務は第一課(一部は第二課)が担当することとなった。昭和3年、海軍兵学校卒の山賀守治と大田香苗の大尉が、海軍大学校選科学生として東京帝国大学理学部の聴講学生として派遣され、気象将校としての人材養成が開始された。教程修了後は山賀が水路部員、大田は霞ヶ浦航空隊に気象士官が配員された。昭和8年には最初の水路部気象観測所が北千島の幌筵島塁山に開設され、これ以降、千島・樺太、南洋群島に観測所が遂次開設されている。同年9月には、海軍大演習において第四艦隊が三陸沖で台風に遭遇し、大事故(第四艦隊事件)が発生している。この事件を契機に、海軍内で気象業務や気象将校養成の重要性が次第に認識され始めていく。なお、昭和9年には海軍航海学校が開校し、ここで気象専攻学生(雀部利三郎、飯田久世他)として気象学の教程を修学させる方針に変更している。昭和11年、水路部に第五課が設置され、気象・海象の業務を所掌することとなった。翌12年には、中央気象台に海軍連絡室が設置され、気象通報や天気図作成に関して気象台との合同勤務が実施されている。同年11月には企画院気象協議会が設置され、陸軍、海軍、中央気象台の緊密な連繋が図られ、気象業務が軍用気象に取り込まれていく。日中戦争(支那事変)が起こり、戦地が拡大する最中、上海海軍気象観測所が設置された。昭和13年には、不足する気象技術員の養成を目的に、水路部で第1期の普通科気象技術員講習が開始される(昭和18年3月に第21期が修了)。また、文官技術者を中央気象台や大学や専門学校卒の採用、海軍委託生として採用後は中央気象台附属の測候(気象)技術官養成所に派遣し、実戦部隊へ配属させていた。昭和16年には水路部内に気象業務を所掌する第三部(第六課、七課)が新設され、同時に人材速成のための修技所(後に気象修技所)が設置され。大量の技工士が養成されている。また、中央気象台構内の海軍連絡室が水路部分室となり、海軍気象通報業務と予報業務を実施することとなった。外地では第二気象隊(上海)、第三気象隊(スラバヤ)が開隊され、パラオの海軍第四気象部がトラックに移動し、第四気象隊が開隊され、南洋庁気象台の職員が第四艦隊司令部附となっている。昭和17年4月、水路部内に海軍気象部が特設され、第一課、第二課が置かれて第三部の職員が兼務した。同年5月には第五気象隊(厚岸)、11月には第八気象隊(ラバウル)が開隊されているが、翌年2月にはガダルカナル島での敗戦により気象隊も撤退を余儀なくされている。水路部以外では、昭和18年4月には、海軍航海学校内に気象教育を専門とする分校が設置され、翌年7月には観測術教育を実施する阿見分校となり、昭和20年3月には阿見分校が独立して海軍気象学校が土浦に開設されている。昭和20年6月には、陸軍、海軍、中央気象台で陸海軍気象委員会が設置され、大本営気象部の開設が検討されたが、終戦により実現を見なかった。終戦後は海軍気象部の全気象業務が中央気象台に移管された。連合軍司令部より海軍の気象業務や気象器材に関する解答の作成が要求され、海軍気象部の大田早苗が残務整理班の中心となり回答書を10月15日に提出している。
著者
中村 周作
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100039, 2017 (Released:2017-05-03)

発表者は,宮崎・熊本・大分を事例として,地域的に好まれる酒の分布圏(飲酒嗜好圏)の析出を試みてきた。今回対象とする佐賀県域を含む北部九州は,従来清酒文化圏として,わが国の大半の地域と共通する飲酒嗜好地域であったところに数次の焼酎ブームで焼酎嗜好が広がり今日に至る。したがって,本研究によって,地域独自の状況把握と同時に,日本におけるおおよその飲酒嗜好とその変容を見通すことができる。本稿の目的は,①地域ごとの飲酒嗜好とその変容を把握すること,②佐賀県域の地域的飲酒嗜好圏の析出を試みる。その上で③わが国の清酒文化圏の飲酒嗜好とその変容について展望する。研究方法として,『福岡国税局統計書』中のデータ分析と,より詳細なデータ,および関係者の声を聞くために,県内全域で57件の小売酒販店に対する聴き取りアンケート調査を実施した。佐賀県は,九州北西部,福岡県と長崎県に挟まれる位置にある。県の面積2440.7km2は,全47都道府県中41位,人口83.3万人も41位,世帯数29.4万も43位の小規模県である。なお,当県内には,税務署管轄区が5(鳥栖地区,佐賀地区,唐津地区,伊万里地区,武雄地区)あり,以下この地域区分により,論を進める。 佐賀県域における飲酒嗜好は,東接する福岡県から波及するブームの影響を強く受けてきた。清酒は,消費の減少が著しい。ただし,これはいわゆる普通酒(大量生産酒)の減少が著しいためであり,特定名称酒は近年好調,佐賀酒ブームが起こっている。単式蒸留しょうちゅうは,消費量が増加し,いわゆる焼酎ブーム末期の2007年にピークとなったが,その後漸減傾向にあり,特定銘柄が生き残っている。連続式蒸留しょうちゅう消費は,漸減を続けてきた。1980~年のチューハイブームと2004年以降の焼酎ブーム時に消費が微増して現在に至る。地区別に飲酒嗜好の特徴をみると,鳥栖地区は,単式蒸留しょうちゅう(特にイモとムギ)の流入と,連続式蒸留しょうちゅうの強さもあって,清酒消費が幾分減じている。佐賀地区は,伝統的に清酒嗜好の強い地区であるが,中で多久は,旧炭鉱地として焼酎消費嗜好が根強い。唐津地区も,清酒嗜好が強いが,ムギ焼酎の消費割合が5地区中で最も高い。伊万里地区は,清酒・イモ消費嗜好が拮抗するが,連続式蒸留しょうちゅうの消費割合も鳥栖地区と並んで高い。武雄地区も,清酒消費の強い地区である。特に強いのが鹿島・嬉野,白石であり,県内有数の清酒産地が,そのまま消費中心となっている。一方で,地域別にみていくと,温泉観光地である武雄市はイモ焼酎の割合が高いし,大町町や江北町でムギ焼酎,江北町や太良町で連続式蒸留しょうちゅう嗜好が強いのは,それが県の縁辺部に残っている例である佐賀県域における飲酒嗜好圏を分類すると,Ⅰ「清酒嗜好卓越型」:伝統の系譜を引き,清酒の生産-消費が直結する地域である。Ⅱ「単式蒸留イモしょうちゅう・清酒嗜好拮抗型」:鳥栖市は,九州の東西南北の飲酒文化が交差する地域であり,伝統的な清酒嗜好に加えていち早く南九州のイモ焼酎のシェアが拡大した。多久市は,かつての炭鉱地で根強い焼酎嗜好がみられる。Ⅲ「清酒・単式蒸留イモしょうちゅう・単式蒸留ムギしょうちゅう・連続式蒸留しょうちゅう嗜好拮抗型」:この型は,県の縁辺部に位置する三養基・神埼地区は,福岡方面から入ってきた焼酎ブームの最も大きな影響を受けた地域であり,同時に連続式蒸留しょうちゅう嗜好も根強い。太良町は,伝統的な清酒嗜好に加えて,福岡方面からの観光客の流入が大きく,観光客の嗜好もあってイモ,ムギ嗜好がみとめられる他,伝統的に連続式蒸留しょうちゅうの強い地域である。
著者
原 雄一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100053, 2017 (Released:2017-05-03)

アメリカには3,000kmから4,000kmに及ぶトレイル、アパラチアントレイルやパシフィッククレストトレイルと呼ばれるロングトレイルがある。ロングトレイルの文化が日本に紹介され、各地でコースが設定されてきている。日本は国土がアメリカと比べて狭いことから数10kmから200km程度のロングトレイルが主流となっているのが現状である。3,000kmのロングトレイルは、日本では到底不可能と考えていたが、南北に長い日本列島の地形特性と歴史の深さを活かし、日本を縦断する2つの歴史街道のルートを設定することができた。ルートをクラウドGISに格納し、誰もが使えるスマートフォンで見て歩くことができる仕組みを構築した。
著者
相馬 拓也
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100051, 2017 (Released:2017-05-03)

1.  はじめに モンゴルには現在でも、500~1,000頭のユキヒョウPanthera uncia(図1)が生息すると推測される。かつては「山の亡霊」と畏れられ、地域の遊牧民はその存在に畏怖を抱き、毛皮のために積極的に捕獲したり、棲息環境を攪乱することは控えられてきた。そして長年ユキヒョウの棲息圏内に暮らした遊牧民でも、その姿を目にしたことのない人物は多い。しかし、ユキヒョウと遊牧民は現在、経験のないほどの緊張関係にある。集中的な保護による個体数の安定とあいまって1990年代以降、ユキヒョウの生態行動にも変化が現れた。人間を恐れなくなり、頻繁に人前に姿を現し、家畜を襲うようにもなった。ユキヒョウと遊牧民の目撃・遭遇事故は、2013年頃を境に急増し、遊牧民の家畜襲撃被害も頻発するようになっている。とくに宿営地まで来て家畜を襲う例が多数発生している。その報復として、国内法でユキヒョウ狩りが完全に禁止された1995年以降にも、遊牧民による私的なユキヒョウ駆除が複数例確認された。 ユキヒョウが希少動物と害獣のはざまを揺れ動く存在となり、地域の牧夫たちもこの双極性に苦悶する。こうした現状を踏まえ、本調査では両者の保全生態を目的として、R1. ユキヒョウ目撃・遭遇事故、R2. ユキヒョウによる家畜被害の推移、により現状把握を行った。2.  対象と方法 本調査は2016年8月7日~23日までの期間、ホブド県ジャルガラント郡、ムンフハイルハン郡、ゼレグ郡、マンハン郡、チャンドマニ群の4ヵ村で実施した。同地のユキヒョウ棲息山地①ジャルガラント、②ボンバット、③ムンフハイルハンで暮らす遊牧民105世帯を訪問し、構成的インタビューにより集中な情報収集を実施した。上記3地点に生息するユキヒョウは、合計約70~90頭前後と推測される。   3.  結果と考察 R1. ユキヒョウの目撃・遭遇事故 遡及調査により、目撃事例180件、遭遇事故53件を特定したところ、2013年頃を境に急増している現状が明らかとなった(図2)。こうした「ユキヒョウ関連事故」の発生状況をみると、「日帰り放牧中」が38.5%ともっとも高く、次に馬群や牛などの「大家畜の見回り」が34.4%と高い。とくに夏季は家畜が採食活動で高所へ赴くため、その見回りの途中でユキヒョウとの目撃・遭遇頻度が高くなると考えられる。「高所への放牧」「見回り」「狩猟」など、遊牧民の生活と切り離せない日常の活動での割合が82.8%となっている。多くの地元遊牧民がユキヒョウを畏れているが、実際にはユキヒョウの対人攻撃性は低く、自身から人間に襲いかかってくることは稀である。現地居住者117名から、本人体験だけでなく伝聞を聴いても、実際に襲われたというオーラルヒストリーは1件も聞かれなかった。 R2. ユキヒョウによる家畜被害の推移 ユキヒョウは高山帯や岩山の放牧地で食草するヤギ、また馬を好んで襲っている(図3)。2000年以降で特定できた馬の襲撃被害104頭のうち89頭が死亡、15頭が生存している。ユキヒョウの襲撃からの生存率は14.4%と低い。その場で即死しなくとも、当日~20日間以内に傷が原因で死亡している。死亡した馬で年齢が特定できた25件の平均年齢は1.04歳(満年齢)で、若年の馬の犠牲が多いことが理解できる。25件のうち14件が1歳未満の仔馬であった。ヤクでもとくに満2歳齢以下が好まれる。被害事例では、宿営地(ホト)付近まで来て家畜を襲った例が23件確認された。時期の特定できた22件のうち、18件が2010年以降で、とくに2015年8件、2016年8件とほとんどが最近2年以内に発生している。3.  今後の展望 ユキヒョウ生息圏に在住する遊牧民のあいだには、「政府によるユキヒョウ被害対策への遅れ」や、「家畜被害に対する補償制度の不在」などの不満が募っている。とくに放牧地を保護地に指定されることへの警戒感や強制移動への不満が噴出している。しかし、ユキヒョウによる家畜被害の増加は、遊牧民自身の生活態度と環境配慮の欠如、例えば(PR1) タルバガンの乱獲、(PR2) 家畜の過大所有と過放牧、(PR3) 家畜防衛の怠り、などに起因する可能性もある。いわば遊牧民自身も、家畜をユキヒョウから守る努力を怠っている側面は否めない。 モンゴルの遊牧民にはかつて、自然のバランスが崩れれば必ず自分たちの生活に跳ね返ってくることを理解しながら、その環境共生観/保全生態観を伝承や戒めとともに受け継いできた。物質面、資金面、制度面等のあらゆる側面で依存体質の現代のモンゴル遊牧民には、能動的な家畜防衛という遊牧活動の原点と自己研鑽こそが、ユキヒョウと遊牧民にとっての望ましい未来を確立するように思われる。
著者
藤岡 悠一郎 高倉 浩樹 後藤 正憲 中田 篤 ボヤコワ サルダナ イグナチェワ ヴァンダ グリゴレフ ステパン
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100094, 2017 (Released:2017-05-03)

1.はじめに 気候変動や地球温暖化の影響により、シベリアなどの高緯度地方では永久凍土の融解が急速に進行している。そのプロセスやメカニズムは、地域ごとに固有の自然環境や社会環境要因によって異なり、各地域における現状や環境変化のメカニズムを把握する必要性が指摘されている。また、そのような環境変化に適応した生業・生活様式を検討し、社会的なレジリエンスを高めていくために、地域住民や行政関係者、研究者などの多様なステークホルダーが現状や地域の課題を認識する必要がある。本研究チームでは、現地調査によって気候変動の影響を明らかにすることと、その過程によって明らかになった諸科学知見を、教育教材の作成を通じて地域住民に還元することを目的として共同研究を進めている。そして、2016年から自然系科学者と人文系科学者との共同調査を東シベリア・チュラプチャ地域において開始した。本発表では、現地の住民が地域で生じている環境変化をどのように認識しているのかという点に焦点を絞り、結果を報告する。 2.方法 2016年9月にロシア連邦サハ共和国チュラプチャ郡チュラプチャ村(郡中心地)において現地調査を実施した。衛星画像を基に現地踏査を実施し、永久凍土融解の実態を把握した。また、チュラプチャに暮らす住民5名を対象にトピック別のグループ・インタビューを実施し、彼らの認識について把握した。さらに、チュラプチャ村近郊のカヤクスィト村において、現地観察および住民に対する聞き取り調査を実施した。 3.結果と考察 1)チュラプチャ村と周辺地域では、永久凍土が融解することによって形成されるサーモカルストが顕著に発達していた。現地踏査の結果、耕作放棄地において融解の進行が顕著であった。また、耕作放棄地に住宅が建築された場所では、住居近くにサーモカルストが形成され、盛り土などの対応を迫られていた。 2)住民は永久凍土の融解がこの地域で広域的に進行していること、特に耕作放棄地で融解が深刻であり、タイガのなかでも部分的に認められること、融解が2000年頃から急速になったことなどを認識していた。本地域における環境変化の問題としては、永久凍土の融解に伴う住宅地の盛り土の必要性や農業・牧畜に対する問題が語られたが、同時に、降水量の減少による干ばつの発生や雪解け時期の早まりなどの問題も重要視されていた。 3)融解の速度が場所によって異なる点について、住民はそのメカニズムを認識していた。例えば、耕作地では、畑を耕起することで土壌表層に空気が入り、断熱材代わりとなって熱が永久凍土に伝わりにくく、耕作放棄地では土壌が圧縮されることで熱が地中まで伝わり、サーモカルストが発達することなどが指摘され、ソ連崩壊やソフホーズの解体が遠因であるとの認識が示された。今後、自然系の研究成果との関係などを考察し、教材としてどのような知見を共有していくのか、検討していく予定である。 付記 本研究は、北極域研究推進プロジェクト(ArCS)東北大学グループ「環境変化の諸科学知見を地域住民に還元する教育教材制作の取組」(代表 高倉浩樹)の一環として行なわれている。
著者
大谷 侑也
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100087, 2017 (Released:2017-05-03)

地球温暖化は近年の人類が直面している喫緊の問題である。そのような状況下、近年最も影響を受けているのが氷河である。アフリカにはキリマンジャロ、ケニア山、ルウェンゾリ山の3つの氷河があるが、いずれも10-20年後には消失するとの予測がなされている。中でも、世界遺産に指定されているケニア山の氷河は年約7~10mの非常に速いスピードで縮小している。このままのスピードで減少を続けると、十数年後には完全に消滅することが予想されている。もし山麓域の河川水、地下水がその消えゆく氷河を主な水源としているならば、将来的にその量は減少することが予想され、それが現実となった場合、地域住民生活および生態系に及ぼされる影響は大きいと考えられる。しかし本地域において、その氷河縮小がもたらす水環境の変化や地域住民への影響を調べた研究は未だ無い。当該地域の水資源を維持、保全する上でそのような情報を得ることは非常に重要である。 ケニア山の氷河縮小と山麓水環境の関係性を把握するため、2015年8月~10月、2016年7月~9月に現地調査を行った。ケニア山西麓および東麓の標高2000~5000mの間で河川水、湧水、氷河融解水、降水、湖水を採水し、現地観測を行った。その結果、ケニア山および山麓域で標高毎に採水された降水サンプルのδ18Oから、明瞭な高度効果(標高が高くなるにつれ酸素・水素同位体比の値が低くなる効果)が見られた。この高度効果直線の算出により、湧水および山麓域で利用される河川水の涵養標高を推定することができた。 西麓の標高1997m付近に流れ、住民に広く利用されるティゲディ川の酸素同位体比は−3.089‰であった。この値を今回得られた高度効果の直線(y = -469.35x + 3630.4)に代入すると5080.2(m)となる。その標高帯は氷河と積雪が多く存在することから、ケニア山西麓の河川水は氷河と降雪の影響を強く受けている可能性が高い。それを裏付けるように、今回の調査では山麓の河川水位が1985~2016年にかけて減少傾向にあることを示したデータが得られている。 一方で、標高1972mの山麓湧水の酸素同位体比(−3.32‰)から、その涵養標高を推定すると5191.8(m)と算出されることから、山麓湧水においても山頂部の氷河と降雪が大きく寄与していることが示唆される。今回の結果から、地域住民に広く利用される水の涵養源に対して、氷河と降雪が少なからず寄与していることが判明した。したがって将来的な氷河の消滅は山麓住民の水資源の減少をもたらすことが予想される。