著者
嶋崎 隆
出版者
一橋大学
雑誌
一橋社会科学 (ISSN:18814956)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.1-49, 2008-12

従来において、英米系とされるいわゆる分析哲学と大陸系のヘーゲル哲学とは、水と油のような相容れない関係にあった。ところが最近、この対立がアメリカのヘーゲル研究を中心に急速に溶解してきた。その震源地はローティ、ブランダム、マクダウェル、ピンカードらであるが、この新傾向はドイツにおいても注目を浴びてきている。本稿はこの傾向に注目し、もっとも本格的に展開したヴェルシュのまとめを紹介・検討しつつ、この新ヘーゲル主義の特徴と問題点を、おもに『精神現象学』を素材に考察する。この傾向は、いわゆる言語論的転回とプラグマティズム的転回の両傾向を含むが、ヴェルシュはおもに前者を扱っている。そのさい彼は、論理実証主義や分析哲学がヘーゲル主義化していくさいの論点として、1直接的な感覚与件や原子論への依拠にたいする批判、2要素主義から全体論への転換、3意識と対象の密接な一致、という三点を取り出す。本稿はとくに、1ではセラーズの所与性への批判、2では、クワインと後期ウィトゲンシュタインの批判、3では、最近の新ヘーゲル主義者の批判を、それぞれ取り上げる。このさいとくに、「いま」「ここ」「このもの」「私」というテーマをもつ直接的な感覚的確信が実は多様に媒介されているという、ヘーゲル『精神現象学』における議論に焦点が当てられる。ここで言語論的転回への評価が不可欠になるが、ヘーゲルの客観的観念論ないしその実在論を高く評価し、「言語論的観念論」を批判するヴェルシュの総括の妥当性について論評する。ところでヴェルシュが忌避したプラグマティズム的転回について、本稿ではさらにローティやピンカードについて検討し、真理論や認識論の議論を踏まえながら、そこで「認識論か社会実践か」という二者択一の硬直した傾向が見られることを批判する。以上のように、アメリカの新ヘーゲル主義の傾向の紹介・検討を、できるだけ幅広く試みる。
著者
嶋崎 隆
出版者
一橋大学
雑誌
一橋社会科学 (ISSN:18814956)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.1-48, 2008-06

本論は、哲学の立場から、私が「エコフィロソフィー」と名づける分野に関して、そこにそもそも原理的に、どういう基本課題なり問題領域が設定される必要があるのかをできるかぎり総合的に検討するものである。すでにこの新しい哲学分野では、日本内外でかなりの蓄積が見られるといえよう。たしかに、エコロジーの各流派を扱ったものとか、環境倫理に焦点を当てた研究は豊富に存在する。だがそれでも、そもそも全体としてエコフィロソフィーがいかなる諸課題を担う必要があるのかについて、幅広く検討されたことはあまりなかったと考えられる。各研究者・各運動家は、自分の興味・関心から問題を提起するわけであるが、それがエコフィロソフィーのどの分野に該当するのか、などを自覚して展開することは意外と少ないと思われる。本論はまず前段として、地球規模の環境問題への対応の困難さについて予備的考察をおこなう。さらに具体的に地球温暖化問題を中心に、自然環境の問題が地球規模で広がってきていることを紹介・検討する。すでにこのなかで、私のエコフィロソフィーのスタンスがある程度明らかになるだろう。以上が前半部分であるが、こうした状況認識を踏まえて、エコフィロソフィーの四つの分野の究明をその基本課題と定めて、そこでどういう問題が、従来の哲学と比べて新しく登場してきたのかを紹介・検討したい。エコフィロソフィーの分野として、第一に自然哲学と狭義のエコロジー、自然科学の分野が考えられ、第二に環境倫理における多様な議論が考察される。さらに第三に、経済現象を中心に、環境問題を社会批判・社会認識との関連で考察する。そして第四に、エコロジカルなライフスタイルの形成の問題を、生活文化を背景に展開したい。以上四つの分野で、エコフィロソフィーの課題は尽くされているように考えられる。
著者
嶋崎 隆
出版者
日本評論社
雑誌
一橋論叢 (ISSN:00182818)
巻号頁・発行日
vol.99, no.4, pp.p536-554, 1988-04

論文タイプ||論説