著者
川口 啓子
出版者
大阪健康福祉短期大学
雑誌
創発 : 大阪健康福祉短期大学紀要 (ISSN:13481576)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.93-102, 2007-03-05

日本赤十字社は、第一次世界大戦直後から次の戦時準備を行った。1922(大正11)年「戦時救護規則」、「救護員任用規則」、「救護員召集規則」を改正し、第二次世界大戦には、かつてない規模の従軍看護婦の養成、派遣が可能となった。日中戦争、太平洋戦争と事態が進むにつれて、日赤以外からも従軍看護婦を募り養成し、あるいは短期間の速成看護婦も従軍させることになった。結果は、大きな犠牲を生むこととなった。戦争終結後も、彼女らには安住はなかった。中国大陸の従軍看護婦は、逃避行、捕虜生活の末、なかなか帰国できなかった。内地では、朝鮮戦争勃発と同時に再び従軍看護婦が召集された。日本国憲法に違反するこの行為は、当時も今も、ほとんど国民には知らされていない。そして、従軍看護婦のその後の生活には、なんらの戦後補償もなかったのである。
著者
川口 啓子
出版者
大阪健康福祉短期大学
雑誌
創発 : 大阪健康福祉短期大学紀要 (ISSN:13481576)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.69-76, 2006-03-25

従軍看護婦が海外戦地に派遣された足跡は、日露戦争における救護活動の国際的評価が高かったことを出発点とし、戦時救護規則を改正したことに始まった。平時に戦時準備を行うこと、病院船救護員をすべて女性にすること、全国から救護看護婦(従軍看護婦)を募ることである。女性が従軍看護婦として、国内でも病院船でも活動できるということの社会的認知を得た後には、海外戦地での活動が課題となった。日赤は、政府・軍部の意向を受け、慎重な議論をしながら、海外戦地に従軍看護婦を派遣した。ドイツ領青島及び欧州ロシア・フランス・イギリスでの傷病兵救護である。この時には、殉職者も出さず、戦闘に巻き込まれることもなく、再び、従軍看護婦はその力量を大いに発揮し、国内外からの高い評価を得ることになった。こうした日赤従軍看護婦の実績は、陸軍看護婦、一般看護婦にも従軍志願の道を開き、兵士に次いで従軍看護婦が戦争参加グループの最大多数となる基盤を築いた。