- 著者
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工藤 邦史
杉村 政徳
- 出版者
- 公益社団法人 日本地理学会
- 雑誌
- 日本地理学会発表要旨集 2009年度日本地理学会春季学術大会
- 巻号頁・発行日
- pp.70, 2009 (Released:2009-06-22)
島畑は一筆の水田の内部に島状に畑地としている様から、そう呼ばれる農業景観である。「刎畑」(はねばた)の別名や、「掘下田」あるいは「半田」とも呼ばれる。いずれにしても、水田と畑地の並存景観という点が特筆される。従来の、柳田国男の稲作指向や、対する坪井洋文の畑作指向の議論では説明することの出来ない形態である。島畑の最も古い成立時期の可能性として、金田(1974)では鎌倉期に遡ることを指摘している。また、江戸期の様々な絵図に描かれ、当時の人々に広く認知されるものとして存在していたことが示されている。かつて竹内(1967)によって、島畑の全国各地の分布が考察された。ところが以降長年にわたり、島畑の現状を捉えた研究はない。また、島畑そのものへのアプローチも、成立経緯の研究事例がわずかにあるだけである。さらに、「景観」に対する観光や文化、歴史的価値を強調するような流れとは無縁であり、同じ農業景観でありながら研究の盛んな、棚田とは状況を異にする。しかし前述のように、島畑の景観および歴史的価値は非常に高く、現状について調査・検討する必要がある。そこで現代においてなお、島畑景観を残す愛知県一宮市三ツ井での調査結果を報告する。島畑は、かつては対象地域のみならず、広く尾張平野に分布していたことが溝口(2002)によって指摘されている。広範に存在していた島畑が消滅していった原因として、第一に灌漑・圃場整備がある。元来島畑の形成は、水利不利条件の克服ためであり、灌漑・圃場整備が進むにつれ島畑は必要がなくなったのである。次の原因として、農耕の機械化がある。農耕を機械化する際、島畑のように水田と畑地が複雑に入り組んだ耕作地形状より、水田・畑地がそれぞれまとまった面積をもつほうが生産効率的に有利である。一方、対象地域に島畑が残っているのは、市街化調整区域に属し、圃場整備や宅地化から免れたこと、また土地所有が小口であり、農地以外への転用の意思決定の足並みが揃わないことに原因がある。現地の聞き取りから、多くの農家が自給目的で多品種少量生産を行なっていることが明らかになった。このような生産形態から、作物には農薬をほとんど使用していない。これは食の安全性の観点のみならず、生態系保全の場としても、島畑の重要性は極めて高い。加えて名古屋という大消費地に近接している点においても、歴史的な農業景観の側面のみに留まらず、農産物供給の場としての価値が潜在的にある。しかし米や一部の野菜は出荷している事例がある一方、現状では既に放棄されて荒地化した島畑も存在する。耕作者の減少や、対象地域では道路整備の予定もあり、島畑の存続は危うい状況に置かれている。島畑は、近年の棚田オーナー制度やアグリツーリズムのような動きとは無縁の状況下で、その形態を長年に亘って継承してきた稀有な農業景観である。しかしながら、とりまく状況は安泰とは程遠く、今後いつ消滅してもおかしくはない。島畑の現況をきちんと把握し、記録に残すことも、農業史・農業景観の観点から極めて重要である。