著者
福田 珠己
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2009年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.253, 2009 (Released:2009-06-22)

1 問題の所在 「郷土」とは,所与の存在として「そこにある」ものなのであろうか。『郷土―表象と実践』(「郷土」研究会 2003)で議論されたのはそのような対象としての郷土ではない。むしろ,社会的実践の中で郷土なるものがどのように策定され具体化されているのか,そのことが問題とされたのである。 本報告は,このような「郷土」の理解を継承するものである。具体的には,明治から昭和にかけて,ある意味で,郷土となるものとかかわり続けた人物,棚橋源太郎に焦点をあて,郷土なるものがどのように具体化・視覚化されたのか,彼の思想との関連から考察する。 2 棚橋源太郎と博物館 棚橋源太郎(1869-1961)は,多様な顔を持つ。理科(博物学)教育を中心とした学校教育、社会教育(生活改善運動)、博物館と多岐にわたる活動を精力的に展開してきた人物である。そのような人物を取り上げるのには理由がある。それは,地理学的知の実践が、狭い意味での学問分野の中に限定されるものではないからである。つまり,地理学者,あるいは地理教育者として名を連ねている者のみが地理学的知の実践者ではないのである。 他方,棚橋の活動期間が極めて長いことも,今回注目する理由の一つである。明治初期から昭和にかけて,様々な社会的状況の中で,郷土なるものに向かい合い続けてきたことに注目することによって,学校教育(あるいは地理教育)の枠の中で郷土なるものを検討してきた従来の郷土研究とは異なった視点を提供できると考えるからである。 棚橋源太郎の生涯を振り返ると,時期によってその活動にいくつかの特徴を見出すことができる。ここでは,棚橋の生涯を振り返りながら,特に,郷土との関連から説明していこう。 第一に,博物学教育者として,理科教材や実科教授法について,思想や方法を展開した時期があげられよう。後の東京高等師範学校で学び,その後,附属小学校に赴任する頃,明治30年頃までがそれにあたる。この時期の棚橋は,実物を重視した理科教育(博物学教育)の展開のみならず,当時導入された郷土教育の教授法にも力を注いだ時期である。この時期の郷土教育については,地理学においても検討されているところである。 第二は,教育博物館への関心が高まった時期である。具体的には,東京高等師範学校附属東京教育博物館主事となった1906年(明治39)から,2年間のドイツ・アメリカ留学をへて,1924年(大正13)に東京教育博物館を退職する頃までがそれに該当する。実科教授法や郷土教育を論じる中でも,学校博物館について言及していたが,この時期には,本格的な教育博物館を立ち上げることに力を注いだ。また,西洋の博物館事情を積極的に紹介した時期でもある。 第三は,1925年(大正14)の二度目のヨーロッパ留学を経て,日本赤十字博物館を拠点として博物館活動を展開する時期である。この時期,棚橋は,郷土博物館設立の運動にも関与するが,通俗教育(社会教育)へと軸足を移していること,また,日本の博物館界の基盤形成を行い,同時に,国際的な視野で博物館を論じたことも特筆すべきことである。 3 考察 棚橋源太郎が実践しようとした,あるいは,視覚化しようとした「郷土」とはどのような存在なのだろうか。また,どのような思想や社会状況と関わっているのだろうか。本報告では,第一に,理科教育から郷土教育,通俗教育へと棚橋の活動の重点が移動していく中で,「郷土」はどのような役割を果たしたのかという点,第二に,郷土なるものがいかなるスケールで思考・実践されてきたかという点,すなわち,様々なスケールで展開される思考・実践の中に「郷土」を位置づけることに焦点をあて,郷土なるものの具体化について論じていきたい。 【文献】 「郷土」研究会 2003. 『郷土―表象と実践』嵯峨野書院.
著者
立岡 裕士
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2009年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.57, 2009 (Released:2009-06-22)

「日本総国風土記」(以下「総国風土記」)は、近世初頭に古風土記を模造して作られた偽書とされる。しかし「総国風土記」は単一の文献と見なすことが困難なほどに多様な形式・内容の写本群として残存している(「総国風土記」という名称を冠した一群の文献が伝えられる一方、それと類似した内容をもちながら「(某国)風土記残篇」といった名称をもつものがあり、また外題的に「総国風土記」として一括されながら内題的には「総国風土記」という名称をもたない文献もある。報告者は当面、「総国風土記」を一群の文献に対する総称として最広義に用いることにする。すなわち、和銅~延長に撰進された古風土記、近世以降に古風土記とは異なるものであることを明示しながら編纂された「新風土記」、のいずれにも属さない「風土記」を「総国風土記」と呼ぶ)。 「総国風土記」の検討は早川(1987)の提起にもかかわらずほとんど進んでいない。「総国風土記」について検討することは、それが受容されたことを通して近世初頭の地誌的知識希求の風潮について考えるための基礎作業である。さらに「総国風土記」作成の原資料について検討することにより、存在が推定される「失われた中世日本地誌」について考えるよすがとなろう。本報告はその端緒として「総国風土記」の分類を試みる。 現存する「総国風土記」は『日本古典籍総合目録』(国文学研究資料館)に収録されただけでも44機関に164部の写本が存在する。近世に地方史誌類などに翻刻収録されたものもある。年代の確実な写本のなかで古いのは18C初頭のもののようである。しかし山崎闇斎の『会津風土記』序文からは17C半ばにはすでに幾つかが流通していたことが考えられる。 「総国風土記」は風土記の残篇として、「虫喰」「落丁」などが織り込まれた形で伝えられている。一つの国の全郡の記事がそろっているのは駿河のみとされる。しかし何らかの記事がある国は45に及ぶ。同一国・同一郡について内容の全く異なるものが存在する場合があり、しかもそれが(異本という形で)同じ写本のなかに併存していることもある。 報告者は当面、下記の観点から「総国風土記」を分類することができるのではないかと考える: ・構成の形式:国単位で巻をなすものと郡単位で巻をなすものとがある。 ・空間的単位:郷・荘(庄)・里・村などが明記されたものと、そうした単位名がついていないものとがある(後者の場合、『和名抄』郷名と一致するものも多いが、そうでないものも多い)。 ・内容:大きくは貢租・物産・説話に分けられる。貢租記事は「公(土)穀○○仮粟○○貢○○」、物産記事は「土地○○民用○○出○○」という形式をとる。説話は地名・寺社の由来などである。特に前2者が混在することは少ない。 ・表記:和風諡号と漢風諡号との違い ・書写奥書:鎌倉~南北朝期(元亨・文和・嘉慶)・戦国末~近世初(大永・弘治・天正・寛永・寛文)のものが多く共通に見られる。
著者
大城 直樹 荒山 正彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2009年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.250, 2009 (Released:2009-06-22)

本シンポジウムの目的は、「郷土」という表象が、いかにして近代の日本において受容ないしは導入され、国民の地理的想像力の中で確固とした実在物として自明化されていったのか、そもそも「郷土」なる概念ないしは着想はどこに由来するものなのか、さらに「郷土」表象をめぐる実践が、どのようなかたちで展開していったのか、これらの事項について検討することにある。 藩政村レベルの共同体とその生活空間を越えて、行政村レベルで共同体意識をもたせるために導入されたこの表象は、元来、19世紀に概念化されたものであり、日本に導入されて100年経った現在、その自明化および身体化を含めて批判的に再検討されるべきである。初等・中等教育における地理のプレゼンスの問題とも直結する肝要な表象=概念を、無反省に使い続けることは、比喩的に言えば、制度疲労による欠陥を見落としてしまうことにつながりかねない。自明化された「郷土」表象の相対化とその歴史的・政治的文脈の洗い出しを行うことが必要である。特定の空間的範域への情動と表象の質の再検討を旨とする本シンポジウムの意義は、特にその批判性にあるといえる。自明視されすぎてしまった「地理」的現実の近代的仕組みを、もう一度その初発の構築プロセスから問い直し、なぜ今なおそれが有効に機能しているのか、そのからくりを解き明かしてみたい。表には出ずとも、あるいは逆にそうであるからこそ、地理的表象とそれに連動する実践は、アンリ・ルフェーブルのいう「空間的実践」と同様、近代性そのもののなかに深く介在しているといえるからである。 周知のように、この「郷土」なる概念ないしは観念が、日露戦争後の農村部の疲弊に対して内務省が主導した地方改良運動と連動したものであるならば、内務省の行政資料に分け入って、その制度的導入・普及の様相を突き止める必要も出て来よう。無論,「郷土」なる表象に当該するものが、前近代になかったかどうかの検証も行う必要があるだろう。 1930年代の文部省主導による郷土教育運動については、なお一層の検討が必要である。小田内通敏のような在野かつ半官の研究者,文検などの教育をめぐる資格制度とそれを取り巻く出版社や大学教員の関係性などに関する研究も、広く郷土研究を再考しようとする場合には必要となる。と同時に,同時代の民芸運動、民俗学、民具研究といったルーラルなものを対象とする知の体系の成立および展開にも着目する必要がある。 郷土教育運動と民俗学・民藝運動・民具研究といった、等しく「郷土」ないしはルーラルなものに関わる知的運動体の活動を問う際にネクサスとなるのは「表象の物象化」の問題である。郷土教育運動は、いうまでもなく文部省主導で1930年代に行われたものであるが、郷土教育自体は無論それ以前からある。郷土教育の中でいかに「郷土なるもの」が表象され、学校教育の中で教え込まれていったかを、より多くの事例から検討していく必要があるだろう。日本人の郷土表象の根幹がここにあるからである。また、これと同時期に柳田國男によって創始された日本民俗学、柳宗悦らの民藝運動、澁澤敬三のアチックミュゼアムを中心に行われた民具研究、これらの知の運動体は多くの言説を生産していったが、まさにその言説の生産行為自体が「郷土なるもの」を実体化せしめ、それを研究者や読者にとって自明なものとして刷り込み、さらにそういうものとして再生産していくことになった。本来、概念ないしは着想に過ぎなかった「郷土」が表象であることを越えて実在物であるかのように物象化していくのは、まさにこのプロセスにおいてである。 だが、これまでのこの知の運動体に関する諸研究では、この「郷土なるもの」を実体として前提しすぎていた。柳田が言ったのとは異なる文脈ではあるが、「郷土を郷土たらしめるもの」、その諸契機に留意する必要があるし、それを突き止めることがおおきな課題となるだろう。 【参考文献】:荒山正彦・大城直樹編(1998):『空間から場所へ』,古今書院,「郷土」研究会編(2003):『郷土―表象と実践―』,嵯峨野書院、2003年,
著者
桐村 喬
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2009年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.221, 2009 (Released:2009-06-22)

I はじめに 東京大都市圏の中核をなす東京23区では,規制緩和などに伴い,1990年代後半以降,丸の内地区や六本木地区といった都心部において,超高層のオフィスビルの建設などの大規模再開発が進んだ.また,バブル経済崩壊以降の地価の下落に伴って,マンションの建設も盛んになったことで,都心部における人口が大きく増加するなど,「都心回帰」と総称される現象がみられるようになった(宮澤・阿部2005). 本研究の目的は,このような東京23区を対象とした社会地区分析を行なうことによって,現在の社会経済的な都市内部構造を解明することである.東京23区を対象とした同様の研究は,都市社会学や都市地理学の立場からなされてきた(高野1979; 倉沢・浅川2004).本研究では,これらの成果を受け継ぎつつ,直近の小地域統計に基づいた社会地区類型を示し,その空間的なパターンについて検討する.特に,資料の制約から,これまで日本ではあまり検討されてこなかった,都市内部における外国人居住の空間的パターンについて,東京都が独自に集計した国勢調査結果データを用いて若干の考察を加えたい. II 分析手法とデータ 本研究で用いる小地域統計は,2005年の国勢調査結果と,2006年の事業所・企業統計調査結果であり,基本的には東京都が独自に集計・公開している町丁目別のデータを利用する.このデータでは,国籍別の外国人人口や,外国人のいる世帯数など,東京都独自の集計項目が存在しているが,職業大分類別の就業者数など集計されていない項目もあり,これらについては総務省統計局が公開しているデータを利用する. これらのデータから,東京23区内の全町丁目別に,居住者に関する54変数と,事業所に関する44変数を作成し,分析データセットを作成する.この分析データセットに対して,各町丁目の類型化のために,自己組織化マップ(SOM)を適用する(桐村2007).SOMは,ニューラルネットワークの一種であり,適用するデータからのサンプリングを繰り返しながら学習することによって,元のデータの特徴を抽出するアルゴリズムである.このようなSOMは,多次元データの可視化や類型化などに利用され,地理的なデータへの適用も可能である.SOMを本研究の分析データセットに対して適用することで,居住者および事業所に関する各変数間の関係性を可視化するとともに,対象とした各町丁目の類型化が可能となる. III SOMの適用と社会地区類型の分布 SOMを適用し,Ward法によって分類した結果,11類型が得られた(図1).類型の分布や特徴をみる限り,国籍別の外国人比率など,外国人に関する変数によって特に特徴づけられた類型はみられなかったが,都心商業地区ホワイト・グレーカラー類型は東南アジアを除く各国の外国人比率が高く,都心部に位置する繁華街の周辺部に分布する傾向がみられた.また,足立区などの北部に点在する高密度ブルーカラー類型は,東アジアや東南アジア系の外国人比率が高く,母子世帯比率や高齢単身世帯比率,完全失業者率が高いなど,社会経済的な弱者の多い地区であるといえる.他の9類型が示す空間的なパターンや,各変数相互間の関係など,より詳細な検討が必要であるが,紙幅の都合上省略する. IV おわりに 本研究では,2000年代半ばの東京23区の社会経済的な属性の類型化を行なった.特に,外国人に関する変数を利用したことで,東京23区における外国人居住地の空間パターンについて検討できた.類型の分布をみる限りでは,従来から指摘されてきた,大規模オフィスやホワイトカラー層の居住する都心と,周辺に位置する東西のセクターといった基本的な都市構造に対して,外国人に関する変数が大きく寄与しているとは言い難い.しかしながら,国籍ごとに居住地は大きく異なり,他の変数との関係性について検討することによって,外国人居住の空間的パターンの実態が明らかになるものと考えられる. 参考文献 桐村 喬2007.小地域の地理的クラスタリング―外れ値処理と空間的スムージング―.GIS―理論と応用―15: 81-92. 倉沢 進・浅川達人2004『新編東京圏の社会地図1975-90』東京大学出版会. 高野岳彦1979.東京都区部における因子生態研究.東北地理31: 250-259. 宮澤 仁・阿部 隆2005.1990年代後半の東京都心部における人口回復と住民構成の変化―国勢調査小地域集計結果の分析から―.地理学評論78: 893-912.
著者
清水 沙耶香
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2009年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.20, 2009 (Released:2009-06-22)

本研究の対象地域は,横浜市鶴見区である.横浜市鶴見区は川崎市に隣接する横浜市内の北部に位置し,東京湾に面する.鶴見区の東部にある潮田地区,仲通地区には沖縄出身者の集住地区が形成されている.本稿では,南米からの帰還移民であることに基づいて,「日系人」を「南米へ移民し定住経験のある日本人,およびその子孫」と定義する.そして「日系人」のうち,本人または日系人としての祖先に沖縄出身者を含む日系人を「沖縄系日系人」,本人または日系人としての祖先が本土出身者である日系人を「本土系日系人」とする. 本研究では,日系人に対して,個人の移動動向に関する聞き取り調査,およびアンケート調査を行なった.沖縄にルーツをもつ日系人が鶴見区に集中する要因を明らかにするため,対象者を沖縄にルーツをもつ者,本土にルーツをもつ者と二分し,比較した.調査は,横浜市鶴見区周辺(鶴見・横浜地区)と,名古屋市港区周辺(名古屋地区)で行なった.名古屋地区に居住する日系人を調査対象としたのは,比較対照により,鶴見・横浜地区の日系人の居住地選択における特徴をより鮮明につかむことができると判断したためである.調査対象者は,全部で67人である.そのうち沖縄系日系人は20人であり,全て鶴見・横浜地区在住である.本土系日系人は47人であり,そのうち鶴見・横浜地区在住者は15人,名古屋地区在住者は32人である.調査結果は,聞き取りおよびアンケート結果の詳細から,抽出し,分析,考察を行なった. その結果は以下の通りである.まず,名古屋地区本土系日系人,鶴見・横浜地区本土系日系人,鶴見地区沖縄系日系人3者に共通するのは,「仕事」に基づく選択と,血縁,友人関係という「人的紐帯」の重視である.それに加え,鶴見・横浜地区本土系日系人と鶴見地区沖縄系日系人に共通して見られるのは,仕事の中でも特に「電気工事」,さらに「鶴見」に関する理由が挙げられた.そして,鶴見地区沖縄系日系人には「沖縄出身者の集住」に起因する理由と,人的紐帯の中でも「沖縄の地縁」による結びつきという理由が見られた. 調査結果をふまえた上で,居住地選択において特に重要と考えられる以下の6つの要素を抽出した.(1)「仕事」,(2)「人的紐帯」,(3)「電気工事業」,(4)「鶴見の地理的要素」,(5)「沖縄の地縁」,(6)「沖縄出身者の集住」,この6つの要素をふまえ,本章では沖縄系日系人が横浜市鶴見区に集中する要因を考察する.これらの6つの要素は,独立するものではなく,相互に関係をもつ.さらにこれらの6つの要素の関連性をふまえると,この6つの要素が生じた背景を,「日系人としての要因」,「沖縄に起因する要因」,「鶴見の場所に起因する要因」から明らかにすることができる.
著者
工藤 邦史 杉村 政徳
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2009年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.70, 2009 (Released:2009-06-22)

島畑は一筆の水田の内部に島状に畑地としている様から、そう呼ばれる農業景観である。「刎畑」(はねばた)の別名や、「掘下田」あるいは「半田」とも呼ばれる。いずれにしても、水田と畑地の並存景観という点が特筆される。従来の、柳田国男の稲作指向や、対する坪井洋文の畑作指向の議論では説明することの出来ない形態である。島畑の最も古い成立時期の可能性として、金田(1974)では鎌倉期に遡ることを指摘している。また、江戸期の様々な絵図に描かれ、当時の人々に広く認知されるものとして存在していたことが示されている。かつて竹内(1967)によって、島畑の全国各地の分布が考察された。ところが以降長年にわたり、島畑の現状を捉えた研究はない。また、島畑そのものへのアプローチも、成立経緯の研究事例がわずかにあるだけである。さらに、「景観」に対する観光や文化、歴史的価値を強調するような流れとは無縁であり、同じ農業景観でありながら研究の盛んな、棚田とは状況を異にする。しかし前述のように、島畑の景観および歴史的価値は非常に高く、現状について調査・検討する必要がある。そこで現代においてなお、島畑景観を残す愛知県一宮市三ツ井での調査結果を報告する。島畑は、かつては対象地域のみならず、広く尾張平野に分布していたことが溝口(2002)によって指摘されている。広範に存在していた島畑が消滅していった原因として、第一に灌漑・圃場整備がある。元来島畑の形成は、水利不利条件の克服ためであり、灌漑・圃場整備が進むにつれ島畑は必要がなくなったのである。次の原因として、農耕の機械化がある。農耕を機械化する際、島畑のように水田と畑地が複雑に入り組んだ耕作地形状より、水田・畑地がそれぞれまとまった面積をもつほうが生産効率的に有利である。一方、対象地域に島畑が残っているのは、市街化調整区域に属し、圃場整備や宅地化から免れたこと、また土地所有が小口であり、農地以外への転用の意思決定の足並みが揃わないことに原因がある。現地の聞き取りから、多くの農家が自給目的で多品種少量生産を行なっていることが明らかになった。このような生産形態から、作物には農薬をほとんど使用していない。これは食の安全性の観点のみならず、生態系保全の場としても、島畑の重要性は極めて高い。加えて名古屋という大消費地に近接している点においても、歴史的な農業景観の側面のみに留まらず、農産物供給の場としての価値が潜在的にある。しかし米や一部の野菜は出荷している事例がある一方、現状では既に放棄されて荒地化した島畑も存在する。耕作者の減少や、対象地域では道路整備の予定もあり、島畑の存続は危うい状況に置かれている。島畑は、近年の棚田オーナー制度やアグリツーリズムのような動きとは無縁の状況下で、その形態を長年に亘って継承してきた稀有な農業景観である。しかしながら、とりまく状況は安泰とは程遠く、今後いつ消滅してもおかしくはない。島畑の現況をきちんと把握し、記録に残すことも、農業史・農業景観の観点から極めて重要である。
著者
相馬 秀廣 田 然 魏 堅 伊藤 敏雄 森谷 一樹 井黒 忍 小方 登
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2009年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.65, 2009 (Released:2009-06-22)

1.はじめに 発表者らは,高解像度衛星画像などを利用して,中国乾燥地域における古灌漑水路・耕地跡の復元に取り組んでいる.内モンゴル西部の黒河下流域では, QuickBird衛星画像の判読により,Bj2008囲郭,蜂の巣パターン遺跡(仮称)などが抽出された.Bj2008囲郭については,本学会の2008年春季学術大会で相馬他によりその存在を指摘したものの,詳細は不明であった.発表では,2008年12月実施の現地調査結果を含めて,両遺跡について判明したことおよびそれらの意義について報告する. 2.Bj2008囲郭 この囲郭は,相馬他(2008)が最初の報告である.一辺の長さが約120~140mの方形に近い形状で,それらは漢代のK688囲郭およびK710囲郭とほぼ共通し.黒河下流域で最大級の遺跡である.K710囲郭と同様に,南門の痕跡が明瞭である.現地では,500mほど離れた付近に西夏・元代の陶片が存在するものの,囲郭付近には前漢代の陶片が散在する.これらの点から,Bj2008囲郭は前漢代のものと判断される.その存在が明らかになったことにより,以下のような新知見などが得られた. Bj2008囲郭周辺には,断片化した盛土型灌漑水路跡およびヤルダン化した農地跡が分布する.同様の農地跡はK710囲郭周辺でも確認されており,漢代に,Bj2008囲郭周辺で農耕が実施されていたことが判明する.QuickBird衛星画像では,ヤルダン化した農地跡は,水路沿いなどに比高3-4mの紅柳包などが発達することが多い西夏・元代の農地跡とは,明瞭に区別される.このような農地跡の現況の相違は,それぞれ放棄された時代の指標として有効であることが示唆される. 黒河下流域には,従来,3つの候官(A1遺跡:殄北候官,A8遺跡:甲渠候官,卅井遺跡:卅井候官)が知られている.それらの平面的配置は,大まかにはA1遺跡と卅井遺跡を結ぶ線を斜辺とする直角二等辺三角形を呈し,漢代の黒河はA8遺跡付近を経て北東の古居延澤へ注いでいた.Bj2008囲郭はほぼこの斜辺 上,卅井遺跡から25kmほどに位置し,漢代の黒河を挟んで反対側のK688囲郭はA1遺跡南方約27kmにある.これらの点から,Bj2008囲郭は,3つの候官やK688囲郭などとともに.前漢代の屯田に際して基準点の一つであったことが判明する.Bj2008囲郭抜きに行われてきた従来の居延オアシスに関する諸解釈は,再検討を迫られることになる. Bj2008囲郭の北西角と南東角を結ぶ対角線は,ヤルダンや囲壁破損などから示される,卓越する強風方向にほぼ並行する.これは,囲郭建設に際して,強風から囲壁の破壊を防ぐことが意識されていたことを示唆する.同様の状況はK710囲郭でも明瞭であり,著しく囲壁の破壊が進行したK688囲郭でも確認される.これらのことから,漢代の黒河下流域では,一辺が120m前後の方形に近い囲郭建設に際して,強風方向が配慮された可能性が強く示唆される. 漢代の120m前後の方形囲郭建設で,強風方向が配慮されたとすれば,同じ乾燥地域であるタリム盆地楼蘭地区のLE遺跡も漢代の建設である可能性が浮上する.このことは,LE遺跡が文書にある「伊循城」である可能性を否定するものではない. 3.蜂の巣パターン遺跡 緑城南方約1km付近の泥質の平坦地には,水路跡を挟み50mほど隔たった2件の西夏住居址東側に,東西約85m,南北約40mの範囲に蜂の巣状土地パターン(蜂の巣パターン遺跡)が認められる.そのパターンは,元代に積極的に推奨された王禎『農書』区田図の坎種法(井黒,2007)に類似し,区田法施行地の可能性が示唆される.しかし,「目」の規模が1-5mとやや大きく,凹凸が逆の部分も存在することから,この遺跡を「擬似区田法」施行地とする.「擬似区田法」であれ,「区田法」に関連する遺跡の報告は初めてである.また,当地では,元代に先立ち,既に西夏で区田法が実施されたことなども判明した. 本研究は,平成20年度科学研究費補助金基盤研究(A)(2)(海外)(19251009)「高解像度衛星データによる古灌漑水路・耕地跡の復元とその系譜の類型化」(代表:相馬秀廣)による研究成果の一部である.
著者
鄭 玉姫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2009年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.149, 2009 (Released:2009-06-22)

1.はじめに 2007年現在,韓国の農林水産部に登録されている農漁村民泊事業*者は,14,805人である.従来,民泊経営のための行政的な手続きは不要であった.それが2005年農漁村整備法の改定により,民泊経営をするためには該当行政当局に民泊事業者指定をうけるようになった.これは日本の民泊が旅館業法の中の簡易宿所営業に登録されていることとは異なる. 日本の民宿地域は,海浜型民宿地域と山地型民宿地域に分けられる(石井 1970).この類型は韓国にも適用できるが,海浜型民泊地域の方が山地型民泊地域より多い.その反面,スキー場の建設は集落のない山地空間で行われており,山地型民泊地域は少ない.つまり,韓国の主な民泊経営は海水浴場周辺地域にあり,海浜型民泊地域を成している. 本稿では,韓国南沿岸部にある南海郡尚州里を取り上げ,その民泊経営の展開と地域の変化をまとめる. 2.南海郡尚州面尚州里の民泊経営と地域変化 1)海水浴場の開場と民泊経営の開始 韓国慶尚南道の南海岸に属する南海郡には4つの海水浴場がある.そのうちもっとも海水浴客を集客しているのが尚州海水浴場である.島嶼である南海郡は,1973年南海大橋の竣工でさらに観光客が増えたが,来客数は1997年の96万人を最高にして,2000年を境に減っている. 尚州里の民泊経営は,1980年に入って海水浴客の増加によって発生した.当時,この地域には民泊が存在しなかったので,海水浴客は宿を求めて自ら農家を尋ねた.それで海水浴場近隣の尚州里では,他より民泊が早期に経営されており,中でも海水浴場と近距離の農家が民泊経営を始めた.その後,海水浴客の増加とともない民泊は全集落をはじめ近隣集落まで広まった. 2)接客業の増加と地域変化 尚州里では,1980年代から増加する海水浴客を対象に,食堂や喫茶店,旅館などの接客業が増えた.なかでも,1990年代に食堂と旅館,自動販売機の開業が多い.とくに食堂の開業は,海水浴時期である5月から7月までが多い.これは民泊で食事を提供しないことに要因がある.また,自動販売機の設置場所は大半が海水浴場の周辺である. 要するに,尚州里内では1990年代から海水浴客の増加に相まって,食堂,旅館などの接客業の営業が多くなった. 3.まとめと考察 尚州里における観光は,1970年代南海大橋の竣工と海水浴場の開場に大きく影響をうけ発展した.とくに民泊経営は,海水浴客の増加とムラの中に宿泊施設がない状況の下で,農家が民泊をはじめた.そして民泊経営は海水浴場の近隣農家から始まり,徐々に集落全体と近隣集落にも広まった.そして,海水浴客を対象に里内では食堂,旅館,自動販売機などの接客業が多く開業した. 尚州里では,海水浴客の増加に相まって民泊経営と接客業の開業が見られ,これらによって観光は重要な生業の一部となっている. 【注】* 農漁村整備法(2005)による民泊事業とは,農漁村地域に居住する住民が農漁家を利用し,利用客の便宜と農漁村所得増大を目的に宿泊・炊事施設などを提供する業としている. 【参考文献】 石井英也 1970. わが国における民宿地域形成についての予察的考察.地理学評論 43(10): 607-622.
著者
財城 真寿美 磯田 道史 八田 浩輔 秋田 浩平 三上 岳彦 塚原 東吾
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2009年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.192, 2009 (Released:2009-06-22)

1.はじめに 東アジア地域では測器による気象観測が最近100年間程度に限られるため,100年以上の気象観測データにもとづく気候変動の解析が困難であった.近年,地球規模の気温上昇が懸念される中,人間活動の影響が小さい時期の気象観測記録を整備し,長期的な気候変動を検証することは,正確な将来予測につながると考えられる.またこれまで数多く行われてきた古日記の天候記録による気温の推定値を検証する際にも,古い気象観測データが有効であると考えられる. Zaiki et al.(2006,2008)は1880年代以前の日本(東京・横浜・大阪・神戸・長崎),また中国(北京)における気象観測記録を均質化し,データを公開している.本研究はこれまで整備してきた19世紀の気象観測記録とほぼ同時期の1852~1868年に,水戸で観測された気温の観測記録を均質化し,現代のデータと比較可能なデータベースを作成することを目的とした.さらにそのデータを使用して,小氷期末期にどのような気温の変化があったかを検討する. 2.資料・データ 19世紀の水戸における気温観測記録は,水戸藩の商人であった大高氏の日記(大高氏記録)に含まれている.原本は東京大学史料編纂所に,写本が茨城大に所蔵されている.寒暖計による気温観測は1852~1868年にわたり,1日1回朝五つ時に実施されている. 水戸気象台の月平均値は要素別月別累年値データ(SMP:1897年~),日・時別値は地上気象観測日別編集データ(SDP:1991年~)を使用した. 3.均質化 大高氏記録の気温は,華氏(°F)で観測されているため,摂氏(°C)へ換算した.さらに,当時の観測時刻である不定時法の「朝五つ時」は季節によって変動するため(午前6時半~8時頃),各月の平均時刻を算出した.そして,水戸気象台の気温時別データを利用して,各月の朝五つ時のみの観測値から求めた月平均気温と24時間観測による月平均値を比較し,均質化のための値を算出した.均質化後には,最近50年間の観測データとの比較によって異常値を判別し,データのクオリティチェックを行った. 4.19世紀の水戸における気温の変動 今回,大高氏記録から所在が判明した1852~1868年の水戸の気温データは未だに断片的ではあるが,1850・1860年代は寒暖差が大きく,夏(8月)は水戸の平年値よりも0.9°C高く,冬(1月)は0.5°C寒冷であったことが明らかとなった.これは,すでにデータベース化している19世紀の東京・横浜での気温の変動とほぼ一致する傾向にある.今後は,大高氏による観測環境がどの程度直射日光の影響を受けやすかったのか等,検討する必要がある.