著者
布 和
出版者
桜花学園大学
雑誌
桜花学園大学人文学部研究紀要 (ISSN:13495607)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.201-210, 2003-03-31

1871年の日清修好条規は,近代中日関係史上における意義が大きい。当時の中国である清国は,アヘン戦争によって,欧米列強に強制的に不平等条約を結ばせられて,外国交渉に一種の拒絶反応を持った。一方,明治維新を起こした日本は,欧米的な近代化を謀りながら,近隣諸国に対して条約外交を展開した。その一環として,清国に条約を求めてきた。日本の要求に対し,清国の外交を掌る総理衙門がまず拒否したが,日本側の粘り強い交渉によって,また,清国の実力者曽国藩,李鴻章らの積極的な建議により,清国が日本と条約を交渉することになった。直隷総督兼ね北洋通商大臣李鴻章は清国側の交渉責任者で,これまでの研究では,李鴻章が対日交渉強硬論者で,日本警戒論を持つとされたが,それは李鴻章の一面でしかなかった。実は,総理衙門,曽国藩の対日警戒論と違って,日本連携論を前提に李鴻章が対日条約交渉を行おうとした。最終的に,曽国藩の意見によって対日連携方針が修正され,日清修好条規における李鴻章の対日連携論も消極的なものになったのである。