著者
平光 睦子
出版者
日本デザイン学会
雑誌
デザイン学研究 (ISSN:09108173)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.69-76, 2013-05-31
参考文献数
27

本稿は、明治期の京都の美術工芸学校の図案教育について、岡倉天心(1863 . 1913年)が美術教育施設二付意見」において示した美術教育制度との比較において考察するものであり、その目的は美術工芸学校の特性や傾向を明らかにすることにある。<br>1894(明治27)年に発表された「美術教育施設ニ付意見」には、近代日本に相応しい美術教育制度の構想が示されている。このなかで、京都の美術工芸学校は、高等美術学校としても技芸学校としても否定されている。<br>岡倉の構想した高等美術学校は、日本美術の保護継承を目的とする専門家養成機関であった。また、技芸学校の目的は直接的に殖産興業に資することであり、ここでの産業は主に大量生産の機械工業をさしていた。<br>一方京都の美術工芸学校は、創立以来の地元の工芸諸産業との関係性を明治中期には一層強めており、1891(明治24)年の工芸図案科設置もその表れといえる。高等美術学校として否定された要因はこの産業との直接的な関係性にあり、技芸学校として否定された要因は、その産業が主に工芸であって機械工業ではないことにあった。