著者
平間 充子
出版者
The Society for Research in Asiatic Music (Toyo Ongaku Gakkai, TOG)
雑誌
東洋音楽研究 (ISSN:00393851)
巻号頁・発行日
vol.2006, no.71, pp.39-63, 2006

踏歌節会の原型は天武・持統朝 (六七二~九七) に遡り、また中国の元宵観燈という行事に起源が求められるとの指摘があるが、その根拠となる『朝野僉載』は元宵観燈を先天二 (七一三) 年と記し、天武・持統朝に及ばない。一方、隋の煬帝 (在位六〇四~一八) は、正月中旬洛陽にて百戯と呼ばれる見世物を諸蕃の前で挙行し、それを恒例とした。本稿では、日本の踏歌節会及びその前身と考えられる正月中旬の饗宴儀礼について、その構造と政治的重要性を中心に煬帝の百戯と比較検討を行うこと、その上で洛陽以外にて行われた煬帝の百戯と奈良次代以前の日本で見られる芸能奏上の場とを比較し、踏歌節会と密接なつながりを持つ射の儀礼を媒介に、古代日本における音楽・芸能の奏上について政治的視点から考察することを目的とする。<br>第一章では、平安初期の儀式書『内裏式』および正史に見える天武朝から桓武朝 (六七二~八〇六) の踏歌節会の構造から、踏歌芸能の有無は踏歌節会の起源特定の根拠となり得ず、それを前提としていた先行研究の結論は再検討を要することを明らかにした。第二章では、『隋書』に見られる都城での百戯の記事を分析し、日本の踏歌節会の原型となった正月中旬の饗宴儀礼のモデル足り得るとの結論に到った。根拠は、元宵観燈と違い諸蕃の参加が不可欠であること、国家的行事としての組織的関与が窺われることの二点が日本の儀礼と共通するからである。第三章では、日本の正月中旬の饗宴儀礼と煬帝の百戯とにおける蕃客・諸蕃の位置づけの差異に関し、射の儀礼との比較から音楽・芸能の奏上が日本独自の礼秩序を体現していた可能性を示した。第四章では、『日本書紀』『続日本紀』に記される奏楽・芸能の奏上のほぼ全てが、蕃客・客徒のいる場か行幸先のどちらかであることについて考察を行い、当時の日本の奏楽・芸能奏上が中国の影響を受けつつも独自の発達を遂げた可能性を指摘した。<br>古代日本の儀礼における音楽・芸能奏上と中国のそれとを比較することは、音楽史的問題に留まらず、礼の移入や日本独自の礼秩序の樹立・表象といった政治史・文化史的側面を解明する手がかりともなり得るであろう。
著者
平間 充子(平間充子)
出版者
桐朋学園大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2012-04-01

当時の正史・儀式書・記録類の記述から、古代日本の儀礼では「いつ」「どこで」「誰が」「何を」「どのように」演じ、またそれを視て聴いていたのかを明らかにし、更にそれらは「なぜ」だったのかを政治的背景から考察した。具体的に扱ったのは、葬送儀礼、行幸、大嘗祭、正月の大饗、旬儀、五月五日および相撲節の芸能である。その結果、日本では古来在地の芸能は土地の霊力の象徴とされ、それを視て聴くことが支配者たる必須要件であったこと、律令制と同時に中国から支配者の徳を流布するための芸能とその概念が導入された可能性が高いこと、そして前者の概念は近衛府の、後者のそれは雅楽寮の芸能が其々表象していたことを指摘した。