著者
斎藤 博次
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
言語と文化の諸相
巻号頁・発行日
pp.243-256, 1999-03-10

以下の論考は、1998年度筑波大学アメリカ文学会での口頭発表の原稿に若干の修正を加えたもので、ソール・ベローの代表作『ハーツォグ』に表現されている「死」と「性」のテーマについて考察している。具体的には、精神分析学的アプローチに基づくクレイトン(John Jacob Clayton)の『ハーツォグ』解釈への疑問点を提示し、それとは別の角度から『ハーツォグ』の「死」と「性」のテーマについて解釈している。論の詳細は以下の説明に譲るが、最初に要点だけを示しておくと次のようになる。(1)クレイトンが『ハーツォグ』における「性」の問題を「死の恐怖」からの逃避と捉えているのに対し、本稿ではそれを「死の恐怖」を克服するための行為として捉える。(2)クレイトンが主人公ハーツォグに「マゾヒズム」と「パラノイア」の特徴を読み取るのに対し、ここではハーツォグの「メランコリー」気質に焦点を当てる。(3)クレイトンが「マゾヒズム」への視座から主にハーツォグと父との関係を重視するのに対し、ここでは「メランコリー」との関連で母との関係に着目する。ただし、ここでは、『ハーツォグ』で重要な役割を果たしているマドレーンは考察の対象にはしてはいない。また、ここで強調するのはラモーナとソノ・オグキに対するハーツォグの関係であり、その以外の女性関係は扱ってはいない。その意味では、ここで行なった「性」と「死」に関する考察は十分なものではなく、考慮すべき余地を大いに残している。論文というより、むしろ研究ノート的な性格を持った論考であることを予めお断りしておく。