著者
長野 俊一
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
言語と文化の諸相
巻号頁・発行日
pp.321-334, 1999-03-10

結婚で大団円を告げ、その先は、語るべきことがもはや何も残されていないかのような恋物語あるいは恋愛小説を拒否することからトルストイの小説『家庭の幸福』《Ceмeйнoe cчacтиe》は始まる。結婚は物語の最終章ではなく序章にすぎない。トゥルゲーネフの中編『アーシャ』を「ゴミ屑」1) と日記に記した作家に言わせれば、過去の恋愛小説は「まったくの戯言」2) だ。ジャンルとしてのロマン主義的恋愛小説そのものが死を宣告され、その終着点から真実の物語が新たに書き下ろされる。
著者
斎藤 博次
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
言語と文化の諸相
巻号頁・発行日
pp.243-256, 1999-03-10

以下の論考は、1998年度筑波大学アメリカ文学会での口頭発表の原稿に若干の修正を加えたもので、ソール・ベローの代表作『ハーツォグ』に表現されている「死」と「性」のテーマについて考察している。具体的には、精神分析学的アプローチに基づくクレイトン(John Jacob Clayton)の『ハーツォグ』解釈への疑問点を提示し、それとは別の角度から『ハーツォグ』の「死」と「性」のテーマについて解釈している。論の詳細は以下の説明に譲るが、最初に要点だけを示しておくと次のようになる。(1)クレイトンが『ハーツォグ』における「性」の問題を「死の恐怖」からの逃避と捉えているのに対し、本稿ではそれを「死の恐怖」を克服するための行為として捉える。(2)クレイトンが主人公ハーツォグに「マゾヒズム」と「パラノイア」の特徴を読み取るのに対し、ここではハーツォグの「メランコリー」気質に焦点を当てる。(3)クレイトンが「マゾヒズム」への視座から主にハーツォグと父との関係を重視するのに対し、ここでは「メランコリー」との関連で母との関係に着目する。ただし、ここでは、『ハーツォグ』で重要な役割を果たしているマドレーンは考察の対象にはしてはいない。また、ここで強調するのはラモーナとソノ・オグキに対するハーツォグの関係であり、その以外の女性関係は扱ってはいない。その意味では、ここで行なった「性」と「死」に関する考察は十分なものではなく、考慮すべき余地を大いに残している。論文というより、むしろ研究ノート的な性格を持った論考であることを予めお断りしておく。
著者
池田 成一 IKEDA Shigekazu
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
言語と文化の諸相
巻号頁・発行日
pp.349-365, 1999-03-10

さきに筆者は、「『消費社会の思想史』の可能性をめぐって」1)において、消費社会の問題に思想史的立場から本格的に取り組んだ数少ない著作の一つであるコリン・キャンベル『ロマン主義の倫理と近代消費主義の精神』2)を扱ったが、その際には紙幅の不足のために、主にその前半を扱うにとどまった。本稿においては、その後半をなす近代思想史のキャンベルによる再構成を紹介しその問題点を論じてみたい。
著者
加藤 宏幸 KATO Hiroyuki
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
言語と文化の諸相
巻号頁・発行日
pp.277-291, 1999-03-10

アンドレ・ジッドの『狭き門』は彼の作品の中でもっともよく読まれている。そして多くの人は、この小説は悲恋を扱った甘美な恋愛小説であると思っているのではなかろうか。そのような体裁をとってはいるが、ジッドはこの作品の中で非常に重要な問題を提起している。一方『背徳』について言えば、『狭き門』ほど読まれてはいないが、そこにもやはり重要な問題が提起されている。作者は問題を提起しただけで、それに対する回答は示していない。この2つの作品を対比することによって、その間題を明らかにしたいと思う。
著者
成田 浩 NARITA Koh
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
言語と文化の諸相
巻号頁・発行日
pp.3-23, 1999-03-10

国際言語学者会議は、ハーグに本部を持つ言語学者常置委員会(comitié International Permanent des Linguistes: CIPL)を母体機関とし、第1回ハーグ(1928年)、第2回ジュネーブ(1931年)、第3回ローマ(1933年)、第4回コペンハーゲン(1936年)、第5回(第二次世界大戦のため中止)、第6回パリ(1948年)、第7回ロンドン(1952年)、第8回オスロ(1957年)、第9回ケンブリッジ[米国](1962年)、第10回ブカレスト(1967年)、第11回ポロニア(1972年)、第12回ウィーン(1977年)、第13回東京(1982年)、第14回東ベルリン(1987年)、第15回ケベック(1992年)、そして第16回パリ(1997年)で開催されている。米国のケンブリッジと唯一のアジアでの東京開催を除けば、全てヨーロッパで開催されてきた。この学会が印欧語の世界で生まれたものであることを思い知らされる気がする。参加国はおよそ50カ国から60カ国、参加者は、近年はおよそ700から1700名くらいである。会意は7日間の日程で、全体研究会議(Plenary Session Meetings)、一般研究部会(Section Meetings)、特別研究部会(Round Table Talks, Symposia)などから成る。
著者
佐藤 芳彦 SATO Yoshihiko
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
言語と文化の諸相
巻号頁・発行日
pp.367-380, 1999-03-10

イギリスによるアイルランド統治史研究の一環として,本稿においては,いわゆる「アイルランド統治問題」の一応の解決策であると想定しうる1914年「アイルランド統治法」を取り上げ,従来の研究においては殆ど欠落していたところの,グレートブリテンとアイルランド間での財政関係史の観点から,同法成立のもつ歴史的意味を検討していきたい。予め,同法成立の直接的背景についていえば,1905年末に成立し,1906年総選挙で圧勝した自由党政権の下で,1907年恐慌を転換点として,1908年老齢年金導入等により社会政策費が増加し,同時に対独建艦競争により海軍費が増加し,そのために提案されたいわゆる「人民予算」(People's Budget)をめぐる1910年の総選挙で,アイルランド自治を要求する「アイルランド国民党」(Irish Nadonalists)が, (1885年, 1892年総選挙後に続いて)いわばキャステインヴォートを握ったので,新たな(第3次)アイルランド統治法案の作成が必要になり,また1911年「国会法」(Parliament Act)によって,その法案の成立が不可避である状況が出現したのである1)。