著者
方 銘 石川 三佐男
出版者
秋田大学
雑誌
秋田大学教育文化学部教育実践研究紀要 (ISSN:13449214)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.153-169, 2008-05

近年の中国古代文学研究は出土文献の大量発見と相侯って、学説の見直しや再検討が必要であるなど、大きな変革期を迎えている。こうした変革期にあって被招聘人・方銘氏と招聘人・石川三佐男は十年余に渉って学術交流を行ってきた。このたび当該の問題について共同研究を行う運びとなった。方銘氏招聘に際しては共同研究(日中共同日本アジア文化研究‐近年の出土文献と戦国文学‐を推進する)を目的とし、身分は特別公開講演会講師(秋田大学を会場に学生・教職員・一般市民を対象とする特別公開講演会を行う)とした。招聘費用は招聘人の研究経費を充てることとした。平成十九年十二月十五日、秋田大学を会場に「中国文化と日本文化への誘い」と題する中国甘粛省・秋田県・中国出土資料学会・秋田大学特別連携講演会が開催され、方銘氏の「近年の出土文献と戦国文学」と題する講演が行われた。他には甘粛省考古文物研究所副研究員・趙建龍氏の「シルクロード周辺の歴史と文化」と題する講演と東京大学東洋文化研究所教授・平勢隆郎氏の『亀趺と茨城の文化および秋田のことなど」と題する講演も行われた。聴講者は百七十余名に及び、得難い知見や感動を共有し合うことができた。本研究は方氏の講演内容を基調とし、これに東京大学及び大阪大学での資料調査や学術交流による共同研究の成果を加筆・増補して成っている。要点の第一は、出土文献と孔子の地位の再確認。ここでは近年の出土文献の中に『易伝』『魯穆公問子思』『窮達以時』『五行』『唐虞之道』『忠信之道』『成之間之』『尊徳義』『性自命出』『六徳』『上海博物館蔵戦国楚竹書』『孔子詩論』『論語』等々、孔子の歴史的地位を示す重要資料が含まれていることから、戦国文学を研究するには孔子から着手しなければならない。孔子は春秋末期の人だが春秋以前の中国文化集大成者であり、戦国文化の創始者である。戦国文学は孔子と切り離すことができない、と指摘している。第二は、出土文献と孔子の大同理想と公羊三世の学説との関係。ここでは孔子は『礼記』礼運篇の中で「大同」の理想を説いている。大同は万民がすべて平等で民主政治が行われることを指していう。孔子が尭と舜と禹の聖治をほめたたえたのは彼らの統治が民に奉仕することを賞賛するためである。現代人は孔子が「周礼」を回復しようとしたと強調するが、周礼の特徴は「小康」の政治であり、これは民主政治に反するものである。孔子の最終理想は大同を実現することにある。彼は礼楽を破壊した政治環境の中で「周礼」の回復を図ることを通じて大同の理想を実現する基礎を積み上げようとしたのである。孔子の立場から言えば先に大同があり、その次に小康、その次に乱世、これは社会が自覚的に体験する退化の必然である。乱世から直接太平を実現することはあり得ない。変化の過程を経過する必要がある。そこで孔子は社会の退化を救うためにはまず小康をめざし、それが実現すれば太平が可能になると考えた。孔子の乱世から小康へ、小康から大同へという考え方は一種の科学的思考であり、人類の内心にも合って近代的人文精神が目指す社会発展の理想にも合致している。その意味では孔子は人類の本当の人権、平等、自由、博愛、独立を実現することを希求した偉大な学者である、という。第三は、出土文献と孔子の完全無欠な審美思想についての新見解。ここでは孔子の視点からすると審美追究は人類究極の理想と合致し、また「六経」(易経・書経・詩経・春秋・礼記・楽経)は普遍的人文精神を貫徹している。聖人を尊び六経を学ぶのは一種積極的な価値がある。そのため戦国時代に醸成された征聖宗経の出発点は人を慈しむことに発し、その客観的効果は文芸作品に人道的配慮を持つようにさせたのである。その意味でも審美追究の出発点と客観的効果には積極的意義がある、と指摘している。第四は、出土文献の中には山東臨沂銀雀山漢墓出土『晏子』、長沙馬王堆漢墓出土『黄帝四経』、同『老子』甲・乙本等々、戦国諸子の文献がたくさん含まれている。いっぽう『漢書』芸文志は『黄帝四経』『荘子』『道徳経』等をすべて道家に組み入れている。しかし出土文献に照らして考えると老子の学説は干渉主義と自由主義を兼ねているのに対し、荘子の学説は干渉主義を除けばむしろ自由主義を容認している。黄老学説の趣旨は指導者に無為の方法を用いて民を統治することを教えるが、荘子は民に無為の方法を用いて指導者の統治から逃れることを教えた。人民本位の視点からすれば、荘子と孔子及び儒家の立場は一致し、老子と法家は一致する、と述べている。第五は、出土文献と賦の内包と外延。戦国時代の「賦」の作家では宋玉が有名である。一九七二年、山東省臨沂銀雀山漢墓から「唐革」と題する竹簡二十篇二百字余りが発見された。「革」は「勒」と意味が通じる。唐革はつまり「唐勒」である。「唐革」はあるいは「唐勒賦」の逸篇であるかも知れない。「唐革」の賦篇は欠落があるが、対句や形容の修辞から見ると散句に属し、屈原の作品や荀子の賦にいう助字「兮」の用法とも異なっている。形式の特徴から見ると『文選』や『古文苑』に収録されている宋玉の諸作とよく似ている。これは宋玉の時代に「高唐賦」や「女神賦」のような優れた作品を創作する環境が整っていたことを示している。同時に「賦興楚盛漢」(賦は楚の国で興って漢代に盛んになった)という伝承の正当性を示している。その意味でも「唐勒賦」の発見は中国文学史上の「賦」に関する研究に重要な意味を投げかけている、と述べている(この指摘は「上海博物館蔵戦国楚竹書」にはある植物をテーマに据えた「賦篇」が含まれていると伝えられることからも看過できないものがある。「賦篇」の早期公開を切望してやまない)。