- 著者
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日影 千秋
- 出版者
- 一般社団法人 日本物理学会
- 雑誌
- 日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
- 巻号頁・発行日
- vol.75, no.7, pp.422-426, 2020-07-05 (Released:2020-11-01)
- 参考文献数
- 15
- 被引用文献数
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宇宙マイクロ波背景放射(CMB)や大規模な銀河サーベイなどの観測の進展により宇宙の膨張と大規模構造の形成の歴史が次第に明らかになり,冷たいダークマター(Cold Dark Matter)と宇宙項Λによる標準宇宙模型「ΛCDM」が確立した.宇宙論パラメターをパーセントレベルで測定できる精密宇宙論の時代が到来する一方で,宇宙の95%を占めるダークマターとダークエネルギー(宇宙項を含む)の素性は未だ不明である.光で直接観測することが困難なダークマターやダークエネルギーの性質を調べる方法のひとつが「重力レンズ効果」である.ダークマター自身の重力によって遠方の銀河からやってくる光の経路が曲がり銀河の形がゆがむ重力レンズ効果を測定することで,ダークマターがどの方向にどれだけ集まっているかを調べることができる.特に宇宙の大規模構造による弱い重力レンズ効果「コズミックシア」を測定することで,ダークマターを主成分とする宇宙の全物質(質量)の地図を描くことができるのだ.また遠くの銀河の重力レンズ効果を調べるほど,より遠方の(過去の)大規模構造の情報を引き出せるため,宇宙の構造が時間とともに成長する様子を調べることができる.宇宙の構造成長の歴史はダーク成分の性質を探る鍵となる.ダークマターは自身の重力によって星の原料となるガスを集め銀河を形成する,つまり,構造の成長を促す役目を果たす.一方,ダークエネルギーは宇宙の膨張を加速させ,構造の成長を妨げようとする.宇宙の構造形成は2つのダーク成分の駆け引きによるため,コズミックシアの観測から宇宙のダーク成分の性質に迫ることができる.しかしコズミックシアは銀河の像の楕円率を数パーセント変える程度の弱い効果であり,これまではコズミックシアによる精密な宇宙論解析を行うことは困難であった.そこで現在,日本のすばる望遠鏡に搭載した超広視野カメラ「ハイパー・シュプリーム・カム(HSC)」による大規模な銀河撮像観測が進行している.すばるHSCの広い視野と優れた撮像性能によって,多数の遠方の暗い銀河の形まで精確に測ることができるようになり,コズミックシアの測定精度が飛躍的に向上したのだ.HSCチームはまず全観測計画の1割強にあたる初期観測データをもとに1,000万個におよぶ銀河の形のカタログを作った.そして銀河の形の重力レンズゆがみを解析し約150平方度の天領域にわたる宇宙の全物質分布の地図を作ることに成功した.ブラインド解析の手法を用いてコズミックシアの天球面上の角度パターンを調べ,現在の宇宙の構造の成長度合いを表す物理量S8≡σ8(Ω m /0.3)α(α~0.5,σ8は質量密度ゆらぎの振幅の大きさ,Ω mは全エネルギーに占める物質の割合)を誤差3.6%の世界最高水準の精度で測定することに成功した.本解析で測定したS8の値は,ΛCDMのもとでプランク衛星のCMB観測に基づいて予想された値と大きな矛盾はなかったものの2シグマ程度小さい値であった.HSCとは独立に異なる天域で行われた重力レンズ観測Kilo-Degree Survey(KiDS)とDarkEnergy Survey(DES)においても同様にプランクの値に比べて小さい値を示しており,プランクの結果との違いの有意性が注目されている.もしプランク衛星による宇宙初期の観測結果と重力レンズによる成長後の宇宙の観測との食い違いが明らかになれば,ΛCDMモデルに含まれていない新しい物理が必要となり,ダーク成分の性質の解明へとつながる可能性がある.今後のHSCの解析結果にぜひ注目していただきたい.