著者
時田 浩
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 = Acta humanistica et scientifica Universitatis Sangio Kyotiensis (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.49, pp.267-281, 2016-03

『頭痛肩こり樋口一葉』は井上ひさし(1934–2010)が1984年に執筆した戯曲である。音楽劇としての魅力と,女性だけ6人の登場人物たちの人生模様の切実さとが観客の興味を引いて,繰り返し上演される代表作となっている。 樋口一葉(1872–1896)は貧困の中に夭折し,一般には薄倖の作家として考えられているが,井上ひさしはそうは捉えない。この作品の中で,井上は一葉を悲劇のヒロインにはせず,むしろ作家としては幸福な生涯を生きたと考える。それゆえ作品は笑いのあふれる喜劇として描かれ,観客に登場人物に同化するのではなく,その生き方の意味を考えるように仕向けることが意図されている。 戯曲化する際には,一葉の小説『十三夜』や『にごりえ』を作品中に取りこみ,登場人物の結婚の現実をコミカルに描写したり,幽霊を登場させることで作品の世界の広がりを大きくし,世間全体を劇中に取りこむことに成功している。 女性6人のドラマというと,三島由紀夫の『サド侯爵夫人』が名高い。井上ひさしはこの人物構成を採りいれ,男性を舞台に1人も登場させないことで,当時の社会を支配していた男性原理を浮かび上がらせようとした。それは同時に一葉の文学の本質をも明らかにすることも可能にした。
著者
時田 浩
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.355-369, 2012-03

ギリシア悲劇以来の長い演劇史の中で,現実そっくりの舞台をつくることは19 世紀後半か ら試みられるようになったにすぎない。その時代には,芝居がかった演劇手法は排除され,自 然主義的な演劇が高く評価された。ゾラの主導のもと,イプセン,チェーホフ,トルストイらが 自然主義的作品を発表し,それまでは舞台に載せられなかった世界が描かれるようになった。 トルストイが異常なほどにシェイクスピアを嫌悪していることはよく知られている。特に, 『リア王』を挙げて詳細に批判している。それにもかかわらず,シェイクスピアのこの戯曲は 現在も傑作として名高い。ヤン・コットが言うように,現代の演劇に通ずる要素をもっている からであり,ベルトルト・ブレヒトはそこにシアトリカルな演劇の可能性を見出した。 ブレヒトは〈異化〉という概念で新たな演劇の方向を探ったが,その際には意図的にシアト リカルな身ぶりを求め,同化を目的とする演劇とは違う楽しみを観客に与えようとした。それ は観客に考えることを期待したのであり,そのために異化という手法を作品の中に導入した。 彼はシェイクスピアなどの演劇の手法を再利用し,それによって,自然主義以前の演劇の手法 を復権させ,新しい演劇の可能性を追求した。