著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.31, pp.56-77, 2004-03

近代日本において日露戦争後に発布された戊申詔書は実効があがらず,地方改良運動は「上から」推進されたものであり,地主的支配体制を再編強化したものであるとされる。報徳主義思想は,この地方改良運動の思想的根拠となり,この再編強化に適合したものであるとされる。しかし,報徳主義思想の展開をみると,報徳思想がそのまま理念となるわけではなく,報徳思想が報徳主義思想へと変容して地方改良運動で利用されている。変容過程で報徳主義思想がもつ特徴は,通俗性・非政治性・没主体性・組織化などである。さらに報徳主義思想は宗教化という過程もたどる。 実際の京都における地方改良運動では,単に報徳主義思想が宣伝普及されたわけではない。実際の活動によって宗教化した報徳主義思想は否定され,地方改良事業講習会・模範例の蒐集・表彰などによって内務官僚の方針に適合する部分が強調される。それは単に道徳論や精神論の強調だけでなく,実態の綿密な把握や教育の重視などの浸透も導くことになる。 地方改良運動は報徳主義思想を理念として,かなり具体性のある事業を展開するが,それを受けとめる側は,結果的に勤倹貯蓄・質素倹約などの日常生活における規律の統制として受け入れる。この意味で報徳主義思想は地方改良を叫びながら,徐々に農村の実態とは垂離した精神主義へと陥っていく。1.はじめに2.地方改良運動と報徳主義思想の展開3.報徳主義思想の宣伝と京都における活動4.地方改良運動の限界と課題
著者
畠山 香織
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.315-334, 2013-03

はじめにⅠ 近代以降の中国人による日本「武士道」に関する言説 1,「武士」,「武士道」の言葉の解釈及び黄遵憲『日本雑事詩』 2,梁啓超の『中国之武士道』 3,辜鴻銘の『中国文明の復興と日本』 4,戴季陶の『日本論』 5,周作人の『日本管窺』Ⅱ 近年中国の日本文化研究に言及される「武士道」 1,「武士道」関連書物の翻訳・出版 2,一般的な日本文化紹介の書物から終わりに
著者
平塚 徹
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.301-325, 2018-03

日本では,しばしば,イエスは馬小屋で生まれたと言われる。しかし,西ヨーロッパにおいては,イエスが生まれたのは,家畜小屋である。日本における馬小屋伝承の起源については,これまで研究がなかった。 キリシタン書では,イエスの生まれた場所は,しばしば,「うまや」とされていた。この語は,語源的には馬小屋を意味するが,牛小屋を指すのにも転用されてきた。キリシタン書における「うまや」は,家畜小屋の意味で使われたと考えられる。本稿では,禁教時代を経てキリスト教解禁以後,「うまや」という語が馬小屋の意味で理解されて,馬小屋伝承が流布し定着したという仮説を提案した。その他に,以下の要因が働いた可能性も指摘した。(1)聖徳太子が厩の前で生まれたという伝説に影響された。(2)英語においてイエスの生まれた家畜小屋を指すにはstableが用いられる。しかし,この語は,通常,馬小屋を指すように意味変化している。(3)ルカ2章に出てくる飼い葉桶の適当な訳語がなく,『明治元訳聖書』や『大正改訳』などの日本語訳聖書で「槽(うまぶね)」や「馬槽(うまぶね)」が用いられた。
著者
鈴木 久男 伊東 史朗 天納 聖佳
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.47, pp.492-466, 2014-03

勝林院は大原北東部の山麓に位置する天台宗の寺院である。周辺には、三千院や後鳥羽天皇陵を始め、勝林院を管理する実光院や宝泉院などがある。勝林院は、平安時代に寂源によって中興されたといわれる寺院とされ、また天台声明の根本道場としても著名である。そして、鎌倉時代に浄土宗の法然は、ここ勝林院において談義を行ったため、浄土宗の信者からも厚い信仰を集めている。 平成二十四年秋、京都産業大学むすびわざ館ギャラリーは、平成二十五年に中興して千年という大きな節目を迎える勝林院の歴史や文化財の展示を計画した。そこで京都産業大学日本文化研究所は研究活動の一環として、勝林院本尊の阿弥陀如来像の調査を勝林院の協力を得て実施した。さらに平成二十五年には勝林院に所蔵されている文化財の整理作業を関係者のご理解により実施することができた。 本報告は平成二十四年度に実施した阿弥陀如来像の調査と平成二十五年度に行った整理作業のなかで明らかになった成果の中間報告である。なお執筆の分担は文末に( )で表記した。
著者
中川 さつき
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.97-113, 2010-03

十八世紀前半の歌劇場の花形はカストラートが演じる男性主人公であり,彼らが悲嘆に暮れる場面が全幕のクライマックスであった。メタスタジオの音楽劇において,主人公である貴公子は優しく典雅な姿に描かれ,彼らが愛する人々に別れを告げて泣きながら去る様子に,当時の観客は涙を抑えられなかったという。とりわけ主人公が無実の罪で牢獄に捕らわれる場面は人気が高く,不運な王子が傷つき苦しむ姿に人々は熱狂した。一方で彼らのパートナーとなる女性主人公は誇り高く雄弁な,理想化された貴婦人である。王子たちは彼女を崇拝し,彼女を通して美徳を学ぶ。威厳を備えた貴婦人と,女性よりも優しく繊細な心を持つ貴公子という組み合わせが当時のオペラにおける理想のカップルである。そして高い音域で歌うカストラートという人種は,そんな男性主人公を表現するために最も適していたのである。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.54, pp.211-240, 2021-03-31

盆栽は日本文化を代表する芸術と考えられている。しかし,近代盆栽は純粋な日本文化を代表するものとは言えない。文化融合の産物であるからである。盆栽は中国由来であったが,江戸期に独特の発展を遂げた。江戸期に流行した「蛸作り」と「盆山」という二つの系譜をたどった。そして,幕末期に中国風の煎茶趣味の影響を受け,近代盆栽が誕生した。明治期に盆栽は政財界人の趣味として広がったが,日本の伝統文化として扱われなかった。しかし,明治後半期以降,国家意識の高まりとともに,伝統文化の見直しがあった。盆栽もその見直しに組み込まれた。盆栽は茶の湯や生け花の要素を取り込むことによって,伝統文化としての装いを整えていった。しかし,茶の湯や俳諧の借り物,あるいは流用感が否めなかった。そこで盆栽本来の特徴として,「盆栽は日本の風土に根ざした自然美を表現する固有の芸術である」とされ,国風化が唱えられた。明治期以降の近代盆栽は,文化融合の産物という特徴をもち続けながら,日本の伝統文化を代表するものとして捉えられていった。
著者
平塚 徹
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.301-325, 2018-03

日本では,しばしば,イエスは馬小屋で生まれたと言われる。しかし,西ヨーロッパにおいては,イエスが生まれたのは,家畜小屋である。日本における馬小屋伝承の起源については,これまで研究がなかった。 キリシタン書では,イエスの生まれた場所は,しばしば,「うまや」とされていた。この語は,語源的には馬小屋を意味するが,牛小屋を指すのにも転用されてきた。キリシタン書における「うまや」は,家畜小屋の意味で使われたと考えられる。本稿では,禁教時代を経てキリスト教解禁以後,「うまや」という語が馬小屋の意味で理解されて,馬小屋伝承が流布し定着したという仮説を提案した。その他に,以下の要因が働いた可能性も指摘した。(1)聖徳太子が厩の前で生まれたという伝説に影響された。(2)英語においてイエスの生まれた家畜小屋を指すにはstable が用いられる。しかし,この語は,通常,馬小屋を指すように意味変化している。(3)ルカ2 章に出てくる飼い葉桶の適当な訳語がなく,『明治元訳聖書』や『大正改訳』などの日本語訳聖書で「槽(うまぶね)」や「馬槽(うまぶね)」が用いられた。
著者
瓜生 濃世
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.49-66, 2013-03

本稿では,筆者が2010 年度から2012 年度春学期に京都産業大学にて行った「フランス文学 概論」での実践を基に,学習者の関心を高めるための技法について考察する。最初に今日の大 学生の性質と特徴に焦点をあて,従来の発想では円滑な授業運営が困難となっている理由を確 認する。次に講義形式の授業において導入可能な技法とその効果について検討し,「文学」を どのような側面から扱えば学習者の関心を呼び起こすことが可能であるか提言したい。今日の 学習者に適合するよう創意工夫すれば,文学の授業が彼らの知的好奇心を涵養する場となるこ とは十分可能であると思われる。
著者
平塚 徹
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.211-238, 2014-03

多くの言語において,電気器具のつけ消しを表すのに,火をつけたり消したりすることを表す動詞を用いる(フランス語 allumer/éteindre,日本語「つける/ 消す」など)。これは火による照明器具について用いられた動詞が電灯に転用され,それが電気器具一般に拡張されたものと考えられる。この過程で,電灯は電気器具のプロトタイプの機能を果たしたと考えることができる。 同じ行為を表すのに開閉を表す動詞を用いる言語も多く存在する(フランス語 ouvrir/fermer,中国語「开/ 关」など)。これは,以下の機序に大きくよっている。すなわち電気器具のつけ消しをメトニミーにより電気を流したり止めたりすることで表し,それをメタファーにより電気の通り道の開閉に見立てたのである。 それ以外にも,別の意味の動詞,句動詞,接頭辞付きの動詞を用いる方法がある。エスペラントは電気器具をつけることを表すために新しい単一の動詞を用意している点で特異である。電気器具をつけるという概念はある程度抽象的であり,これを表現するには自然言語は何らかの方略に訴えるのである。
著者
池田 昌広
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 = Acta humanistica et scientifica Universitatis Sangio Kyotiensis (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.50, pp.207-230, 2017-03

書写用の紙は2 世紀初め洛陽で考案された。その理由を通説はこういう。当時の人びとが重くかさばる不便な竹簡に替わるより便利な書写材を追求した結果,紙が開発された,と。しかし竹簡の不便の表白は紙という便利な書写材を入手して以降の文献に限られる。そもそも竹簡の使用歴は過去千年以上あったにもかかわらず,なぜ2 世紀になって新たな書写材が考案されたのか,通説では説明できない。小論は,気候変動による竹材供給の不安定が紙開発の動機であったと考える。竹は高温多湿をこのむ植物である。殷周時代は非常に温暖湿潤で華北でも竹は潤沢に生えていた。しかし六朝時代の小氷期に向かって華北の気候は寒冷乾燥へ変化していった。いきおい中原の竹は衰退していったと推される。竹材は不足がちになり,その状況があらたな書写材の開発をうながしたのではないか。その結論が紙であったと思うのである。
著者
小倉 恵実
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.43, pp.123-153, 2011-03

両大戦間期のアメリカで出版・発表された大衆向けの雑誌や小説の中では「フロイト」や「心理学」「精神分析」と言った言葉がしばしば登場する。小説や戯曲などの文学の中ではフロイトの理論やフロイトという人物について,読者の側が予めある程度の知識を持っていることを前提として書かれたものが多く,大衆向け雑誌の中ではフロイトの理論や精神分析が誤用されたり心理学そのものが堕落してしまったりしていることを嘆く論調のものが多数見られる。これは当時のアメリカの社会事情や人々が持つ不安を如実に表しているものである。
著者
内田 健一
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.233-254, 2015-03

ダンヌンツィオの言葉は,マンゾーニ派の目指した「日常的」なものと全く異なる,とりわけ「文学的」なものであった。にもかかわらず,彼の言葉は社会に大きな影響を与え,低劣な「ダンヌンツィオ主義」を生み出した。そこで本稿では,彼の言葉の実像を,彼自身の証言を通時的に検討することによって,彼の人生との関わりも含めて明らかにする。 1888 年の記事〈ジャウフレ・リュデル〉で,カルドゥッチの散文における言葉の音楽性と語源の探求を賞讃するが,実はそれらはダンヌンツィオ自身の理想に他ならない(第1 章)。1889 年の小説『快楽』では,「詩こそ全て」と言葉の全能性を認め,トスカーナ語の伝統への愛着を表明する(第2 章)。1894 年の小説『死の勝利』の献辞で,ダンヌンツィオは自らを言葉の冒険者として描き,イタリアの威信を高める言葉の創出を目指す(第3 章)。1895 年の小説『岩窟の乙女たち』において,言葉と民族主義の深い結び付きを示す。ここで言葉は虚構の道具ではなく現実的な「武器」と見なされる(第4 章)。1900 年の講演〈ダンテの神殿〉でダンヌンツィオは,カルドゥッチに代わる「詩聖」として,言語の崇拝を司る(第5 章)。同じ1900 年の小説『火』で,作品という虚構の中ではあるが,理想的に芸術と人生が一致する。詩人の言葉は,英雄の身振りと同じように,「行為」と見なされる(第6 章)。1903 年の詩篇『マイア』では,「民族の神話的な力」として讃えられる言葉を用いて,詩人は新しい時代の訪れを告げる(第7 章)。1906 年の『散文選集』の出版の経緯から,ダンヌンツィオの言葉に対する誠実さが窺われる。その「前書き」には言葉の「師匠」としての自負が表れる(第8章)。1913 年の伝記『コーラ・ディ・リエンツォの人生』の献辞では,クルスカ学会を揶揄しつつ,言葉の「精華」を追求する自らの姿を描く(第9 章)。『鉄槌の火花』の一つ,1924 年の随筆『ルクレツィア・ブーティの第二の愛人』では,寄宿学校の日々を回想する中で,トスカーナ語への執着とマンゾーニ派への反感を語る(第10 章)。1935 年の自叙伝『秘密の本』で,年老いたダンヌンツィオは言葉を「交流」ではなく「表現」の手段と考える。そして彼の言葉と人生は神秘的な合一に達する(第11 章)。 ダンヌンツィオにとって,はじめカルドゥッチは言葉だけではなく新しい自由の指導者でもあったが,次第に束縛となる。1907 年の師匠の死によって解放されたダンヌンツィオは,劇場と戦場で本当の自分らしい人生を追求する。そこで彼は自らの生命のリズムに言葉を合わせることによって,より広く深い自由の世界を表現することができた。
著者
李 丹慧[著] 吉田 豊子[訳]
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.407-430, 2015-03

中国の新疆におけるソ僑〔ソ連国籍をもつ新疆の人〕及びその膨大かつ複雑な社会関係のネットワークは,ソ連が新疆で影響力を拡大し維持する広くかつ深い社会的基盤となっていた。とりわけ1940 年代の半ばには,このような特殊な集団は新疆において実際にある種の「国の中の国」という状況を作り出していた。このような状態は,中華人民共和国の成立後においても続いたのである。新疆のソ僑協会はソ僑の集団を一層凝集させ,新疆におけるソ連の社会的基 盤を強固にした。そして,1950 年代半ばからグループに分かれて帰国したソ僑は,自分たちと新疆域内の親族及びその社会関係とをつなぐルートを築いた。中ソ関係に亀裂が生じた時に,ソ連は新疆におけるソ連籍幹部を勢力の中核とし,帰国ソ僑をルートにして,中国の反修正主義闘争の方針に対応しようとした。中ソが分裂した後,帰国ソ僑と新疆の辺疆地域の人民との間の相互関係の発展にともなって,潜在していた新疆地区の民族分裂の情緒が噴出し,ソ連の中央アジア地域の各加盟共和国が,ある程度,新疆の民族分裂主義のガソリン・スタンドや大本営となり,新疆は中ソ友好の基地や戦略的大後方から,中国がソ連の修正主義に対抗する中心的な地域となり,イリはさらに反修正主義闘争の前線基地となってしまった。
著者
高山 秀三
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.281-316, 2015-03

三島由紀夫は少年期からニーチェを愛読し,大きな影響を受けた。ニーチェと三島には,女性ばかりに取り囲まれた環境で幼少期を過ごしたという共通性がある。女性的な環境で育った人間が自身のうちなる女性性と戦うなかで生れたニーチェの哲学は,受動性や従順,あるいは柔弱さなどのいわゆる女性的なものに対する嫌悪を多分に含んでいる。それは思春期の自我の目覚めとともに男性的な方向に向けて自己改造をはじめていた三島の気持に大いにかなうものだった。戦時中,十九歳のときの小説『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃』は三島自身がニーチェのつよい影響のもとで書いたことを認める作品である。無差別的な大量殺人を行なう「殺人者」の思いを日記体でつづったこの小説にあって,「殺人者」はその「殺人」によって,失われていた生の息吹を取り戻す。この「殺人」は三島が目指す危険な芸術の比喩であると同時に殺人という悪そのものである。ここには幼少期以来,攻撃性の発露を妨げられ,健全な生から疎外されているという意識に苦しみつづけてきた三島の,生を回復するための過激な覚悟が反映している。そしてこの覚悟は,三島と同様に女性に囲まれた幼少期を送り,自分の弱さと世界における局外者性の意識に苦しみながら,男性的なヒロイズムをもって自分を乗り越えていく思想を語りつづけたニーチェの戦闘的な著作への共感から生れている。
著者
若井 勲夫
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.286-264, 2010-03

本誌第四十号(平成二十一年三月)でわらべ歌の二編(「かごめかごめ」「通りゃんせ」)を取上げ、国語学・国文学の研究に基づき、起源の形から歌詞が変化していく過程を跡づけながら、歌詞の言葉と表現を言語主体の意識や感覚を中心に精しく分析し、一語、一句ごとに解釈を施し、主題を明らかにした。本稿はこれに引続いて、わらべ歌の「ずいずいずっころばし」を考究する。 この歌は江戸時代の文献には見られず、明治十六年の綿絵風のおもちゃ絵が初出であり、二、三十年の歌謡集に見られる。内容については従来、意味がはっきりせず、明確な説明がされなかった。通説としては江戸時代のお茶壷道中によるとされるが、これには何の根拠もなく、歌詞の一部をそのように考えれば、その歌の部分的な解釈ができるという程度に過ぎない。この他に、意味不明説、不可解な点に意味を認める説、また、解釈そのものを否定する説などがあり、それ以上に進まなかった。その後、近世近代の歌謡研究家の西沢爽氏が「ずっころばし」と「胡麻味噌」を近世語からの転訛として解釈を試み、大体の全体像が初めて明らかになった。 本稿はこの西沢説によりながら、近世語の用例や関連語を挙げて右の二語の語釈を補い、「抜けたら」その他について新しい解釈を提示し、全体の展開と構成を矛盾することなく、整合的に明らかにし得た。さらに、元の歌詞が転訛していく過程を追い、異なった語句の解釈から逆に元歌の語釈を究め、また、多くの類歌の表現を分析し、そこに共通する意味や言語主体の発想と意識を探り、この歌を初めて総合的に解明することができた。研究の態度としては、先入観にとらわれず、独断やこじつけに陥らず、また、興味本位や卑俗に流れず、あくまで学問的に語釈、評釈し、考証することを心懸けた。わらべ歌は子供の素朴、純真な童心だけを歌うものではなく、特に意識しなくても、その底には善悪、明暗、清濁の入り混った心を表すものである。
著者
吉田 卓爾
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.53, pp.228-198, 2020-03-31

室町将軍三代義満より六代義教を経て八代義政へと至る間に形成された唐物コレクション「東山御物」に関する研究は膨大な数に上る。絵画史分野においては、資料に限りがある中で、将軍の鑑蔵印を有する現存作品の研究や、『御物御畫目録』、『室町殿行幸御錺記』、『小河御所并東山殿御錺図』、「君臺観左右帳記」(諸本)、『圖繪寶鑑』等、重要史料の精査が蓄積されている。 所蔵品目録あるいは画人録といった要素を有する上記諸史料に対し、『蔭凉軒日録』は相国寺塔頭の鹿苑院内に設置された蔭凉軒主の日記であり、性格が大きく異なるため比較し得る部分が少ない。従来、『蔭凉軒日録』の記述は断片的に扱われることが大半であった。 本課題は『蔭凉軒日録』の精査を経て、当時の相国寺に伝来した絵画に関する記述に注目している。当該絵画に関する記述からは、応仁・文明の乱以降の相国寺における絵画受用の在り方が垣間見られる。本稿では『蔭凉軒日録』の記録内容を詳述・検討し、十五世紀の将軍家及び寺家における宋・元・明絵画の受容と室町絵画の様式変遷について考察を進めていくための足がかりとしたい。