著者
杜 勤
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.20, pp.69-80, 2000-02

日本神話は中国の経典・史書の構造的受容と同時に、思想体系の上でも中国思想の潤色を受けたと考えられる。小論ではイザナキ・イザナミ神話、アマテラス・スサノオ神話、天の石屋戸神話を取り上げて、老荘思想を中心に、「記・紀」神話における弁証法的思考の解読を試みてみたいと思う。天地の分離後、イザナキはイザナミを追って黄泉を訪問して、ヨミガヘリした。イザナキの懇願によってイザナミはいったん生の世界に帰ろうと決意した。なお最終的には、イザナキは父なる天になることによって「永遠の生」を得、一方ではイザナミは母なる大地の存在になりきれ、永遠な「死」を得たが、創成神になったことには変わりない。明らかにこの永遠の「生」・「死」両カテゴリーは是・非、善・悪という価値判断に左右されない性格を持っており、弁証法的な不可分性を語っている。スサノオは天上では悪や禍事の元凶であり、アマテラスの対立面として現れたが、地上での彼の姿はそれとは打って変わってすこぶる平和的な英雄神である。対立するものはそれぞれ正と反の間をさまよいながら、双方間の対立を繰り返していく。そして相互転化しながら、結局相補相成の関係を作っていく。天の石屋戸では宇宙の中に神と人間が共々にあるという宇宙観が語られている。それは寛容と融通性を特色とし、超越的至上神に支配され、不寛容と非妥協性を特色とする宇宙観と著しい対比を為している。彼・此、是・非の対立を超越し、それらを一体に包容しながら、それらを根源的な統合性から達観する。神話に投影されるこの弁証法的思考は日本人の思想、宗教、社会を支える重要な礎と言える。