著者
横地 隆 松田 英仁
出版者
日本鱗翅学会
雑誌
蝶と蛾 (ISSN:00240974)
巻号頁・発行日
vol.50, no.1, pp.17-34, 1999-01-20

はじめに塚田(1991)によれば,Euthalia agnisはマレー半島,ボルネオ,スマトラ,ジャワ各地から記録され,いずれの産地でもかなりの稀少種である.最近ボルネオ産亜種tinnaに類似した型(以下,tinna型とする)の♂個体が北部,西部スマトラから複数得られたが,これらは従来スマトラより知られる亜種modestaとは全く異なるものであった.また筆者の1人,横地は南タイ産のtinna型の♂個体と,ジャワ産agnisに類似する型(以下,agnis型とする)のマレーシア・キャメロンハイランド産♂個体を所蔵している.つまりスマトラ,マレー半島ではtinna型とagnis型が混棲していることになる.本編ではagnis型とtinna型を便宜的にagnis群(complex)と呼び,パリ国立自然史博物館(昆虫部門)(MNHN),ライデン博物館(RMNH),ロンドン大英博物館(自然史)(BMNH),シンガポール国立大学動物学教室(NUS)におけるタイプシリーズの調査に基づいて本群の分類を再検討した.Agnis群の分類の変遷現在までに記載された本群は次の6タクサである(T.L.:基産地).agniformis Fruhstorfer,1906(T.L.:Deli,Sumatra)agnis Snellen van Vollenhoven,1862(T.L.:Java)canens Tsukada,1991(T.L.:Mt Dempo,S.Sumatra)modesta Fruhstorfer,1906(T.L.:Battak Mts,Sumatra)paupera Fruhstorfer,1906(T.L.:the Malay peninsula)tinna Fruhstorfer,1906(T.L.:Kinabalu,N.Borneo)以下に本群がどのような分類学上の位置で扱われてきたかを年代順に示す(シノニムリストも参照).1.Snellen van Vollenhoven(1862)Adolias agnis Snellen van Vollenhoven,1862 Snellen van Vollenhoven(1862)は,本群のタクソンとして初めて西ジャワからagnisを記載した.原記載では♀が図示されているが,タイプシリーズの個体数は不明である.これ(ら)はRMNHに保管されており,筆者らは確認している.レクトタイプの指定は行われていない.2.Fruhstorfer(1906)Fruhstorfer(1906)はtinnaとその2亜種およびagnisの1亜種の4タクサを記載した.1)Euthalia tinna Fruhstorfer,1906北ボルネオのキナバル山を基産地として2♂1♀で記載された.原記載では♂♀が図示されている.タイプシリーズはMNHNに保管されており,このうち1♂をレクトタイプとして本編で指定した(図13-14).2)Euthalia tinna agniformis Fruhstorfer,1906北スマトラのデリを基産地として3♂1♀で記載された.原記載では♀が図示されている(tinna型).タイプシリーズのうち1♀のみがMNHNに保管されている.しかし,残り3♂の個体は所在不明である.レクトタイプを♀として,その指定を本編でおこなった(図21-22).3)Euthalia tinna paupera Fruhstorfer,1906マレー半島を基産地として1♂で記載されたが,原記載に図示はない.ホロタイプはシンガポール博物館保管と記されている(同館の標本は1957年に全てNUSへ移管された)が,発見できない.またBMNH,MNHNへの移管も考えられたが確認できない(追跡不能).4)Euthalia agnis modesta Fruhstorfer,1906 agniformisと同一基産地である北スマトラのバタック山脈から3♀で記載されたが,原記載に図示はない.タイプシリーズはMNHNに保管されており,agnis型である.1♀をレクトタイプとして,その指定を本編でおこなった(図7-8).3.Fruhstorfer(1913)Euthalia agnis(Snellen van Vollenhoven,1862)ssp.agnis(W.Java)ssp.modesta(N.Sumatra)Euthalia tinna Fruhstorfer,1906 ssp.tinna(N.Borneo)ssp.agniformis(N.Sumatra)ssp.paupera(the Malay peninsula)Fruhstorfer(1913)はザイツ第9巻でもこのように本群を2種として扱った.両種はスマトラで混棲しているとの見解である.またここで初めて1906年に記載したagniformisの♂個体を図示している(pl.129,row b).4.Corbet(1941)Euthalia agnis:Corbet,1941 Corbet(1941)はジャワ産agnisとボルネオ産tinnaにつき比較し,両者を同一種と考えた.5.Corbet(1945)Euthalia agnis modesta:Corbet,1945 Corbet(1945)はスマトラ産modestaをagnisの亜種として示した.標本の図示はないが♂ゲニタリアを示している.6.Fleming(1975,1983)Euthalia agnis paupera:Fleming,1975 Euthalia agnis paupera:Fleming,1983 Fleming(1975,1983)はマレー半島産pauperaをagnisの亜種として示した.♂♀が図示されているが,♂はtinna型,♀はagnis型である.7.D'Abrera(1985)Euthalia agnis paupera:D'Abrera,1985 Euthalia agnis tinna:D'Abrera,1985 Euthalia agniformis:D'Abrera,1985 D'Abrera(1985)はpauperaとtinnaをagnisの亜種とした.またagniformisを独立種として記述したが,その扱いに確証を持っていない.tinnaはagnis(あるいはEuthalia merta)と同一種ではないかと考えたためである.8.大塚(1988)Euthalia agnis modesta:Ostuka,1988大塚(1988)はボルネオ産をagnisとし,亜種名にmodestaを充てた.しかしmodestaは北スマトラを基産地としており,tinnaをmodestaのシノニムとする記述もないことから,本来はtinnaとすべきである.♂♀の個体が図示されている(tinna型).9.塚田(1991)Euthalia agnis(Snellen van Vollenhoven,1862)ssp.agnis(Java)ssp.modesta(N.Sumatra)ssp.canens(S.Sumatra)ssp.paupga(W.Malaysia)ssp. tinna(Borneo)Euthan aconthea(Cramer,1777)ssp.purana(Sumatra)=agniformis塚田(1991)は,tinnaをagnisのボルネオ亜種とし,agniformisをEuthalia acontheaのスマトラ亜種puranaのシノニムとして扱った.Fruhstorfer(1913)によるSeitz,vol.9,pl.129,row bに図示されたagniformis♂がEuthalia acontheaと考えられるためである.塚田(1991)におけるpl.110,fig.1の♂はtinna型で,figs 2,3の♀はagnis型である.また南スマトラ産に新亜種名canensを与えた.10.Eliot(1992)Euthalia agnis paupera:Eliot,1992 Eliot(1992)はマレー産をpauperaとして記し,1♂1♀を図示した.このうち1♀はagnis型であるが,1♂は(やや写真の鮮明さに欠けるものの)tinna型と思われる.考案以上の変遷をみると,Fruhstorfer(1906,1913)はagnis群を種tinnaと種agnisの2種としたが,その後Corbet(1941)がagnisの1種として以来,この分類が一般的となっている.しかし今回までに筆者らが入手した標本,資料に基づき検討を加えたところ,本群はFruhstorfer(1906,1913)の分類に準じて2種に分けるのが以下のような理由から適当と考えられる.1)北部,西部スマトラよりtinna型♂の再発見従来より得られていたスマトラ産の個体はagniformisのタイプ標本を除いて全てagnis型(亜種modestaとされる)であった.この例外のagniformisの♀タイプ標本はtinna型(♂タイプ標本は不明)であり,Fruhstorferが1906年にスマトラより記載したものである.しかしその後agniformisの分類学的位置は曖昧のままとされてきた.今回筆者らはタイプの調査を行うとともに,agniformisに相当するtinna型の♂個体を初記録として北部,西部スマトラより入手できたため,同島に両型が分布することを確認できた,つまりmodestaは種agnisの亜種,agniformisは種tinnaの亜種として整理される.2)南タイ・ラノンよりtinna型♂の発見Fruhstorfer(1906)はマレー産pauperaをtinnaの亜種としているが,筆者らはマレー半島産のtinna型の標本をこれまで実見していなかった.ただし,Fleming(1975,1983),塚田(1991),Eliot(1992)での図示標本は♂は全てtinna型,♀はagnis型と考えられる.また宮下哲夫氏(東京)の私信では,彼のコレクションのマレー産1♂はtinna型であるとのことである.ところが筆者のひとり,横地の所有する1♂はagnis型であり,♀も現在までagnis型しか見ていない.前述のようにpauperaのタイプ標本は所在不明で,原記載には図示もなく,これが果たしてtinna型かagnis型かは不明である.しかし,後にFruhstorfer(1913)が本タクサをtinnaに分類していることから,pauperaがtinna型であることは間違いないと思われる.今回筆者らははじめてtinna型の♂を南タイから入手したことで,tinna型の♀は未知ではあるものの,マレー半島にも両型が分布することを確認できた.つまり真のpauperaは種tinnaの亜種,マレー半島産のagnis型は種agnisの新亜種(hiyamai ssp.nov.,図9-12)として整理するのが自然であろう(厳密に言えば,今回発見の♂個体はpauperaの基産地とは離れた産地に由来することも考えられ,亜種レベルで同一視できない可能性も残されているが,ここではpauperaに含めて扱うこととする).原記載以後agniformisに触れたのは,Fruhstorfer(1913)以外にはD'Abrera(1985)と塚田(1991)のみであり,それは独立種とされたりEuthalia aconthea puranaのシノニムとされたりしてきた.タイプシリーズ3♂1♀のうち,3♂は所在不明で実見できないが,Seitz vol.9に図示があり,この♂は種acontheaとみるべきと考える.実際,塚田(1991)も同様の扱いをしている.1♀はMNHNに保管されておりtinna型である.この1♀をレクトタイプに指定することで,agniformisの分類学的位置が明確になる.塚田(1991)はスマトラ亜種を北スマトラのmodestaと南スマトラのcanensに分けているが,両者を区別するのは困難であるため,ここではcanensをmodestaのシノニムとした.さらにボルネオ,西カリマンタンより種tinnaの♀が記録された.新亜種の可能性があるが,1♀のみの記録であるため,図示(図17-18)に留めておく.Euthalia (Euthalia)agnis(Snellen van Vollenhoven,1862)ssp.agnis(Snellen van Vollenhoven,1862)(図1-4)分布.W.Java,C.Java.ssp.modesta Fruhstorfer,1906(図5-8)=canens Tsukada,1991,syn.nov.分布.Sumatra.ssp.hiyamai Yokochi&Matsuda,ssp.nov.(図9-12)分布.W.Malaysia.Euthalia(Euthalia)tinna Fruhstorfer,1906,sp.rev.ssp.tinna Fruhstorfer,1906(図13-18)分布.Borneo.ssp.agniformis Fruhstorfer,1906,stat.rev.(図19-22)分布.N.Sumatra,W.Sumatra.ssp.paupera Fruhstorfer,1906,stat.rev.(図23-24)分布.W.Malaysia,S.Thailand.種agnisと種tinnaの形態学的差異1.翅斑♂(1)翅形はagnisの場合tinnaに比べ,前翅肛角の張り出しが強いのに対し,tinnaは後翅前角の張り出しが強い.(2)両種とも翅表の色調は黒茶色だが,agnisではやや紫がかり,濃淡のめりはりがはっきりしている.(3)両種とも前翅表の白斑列は一直線に並ぶが,図25で示す角度αがagnis<tinnaとなる.また,白斑個々の形はagnisでは個々の白斑の大きさがほぼ同一で類円形もしくは楔形となるのに対して,tinnaの場合横に細長くなり,第5室のものが最も大きくなる.(4)agnisは後翅表第7室を中心に藤紫色を呈するが,tinnaでは認めないか,もしくは非常にうすい.(5)翅裏は地色がagnisでは灰白色であるが,tinnaでは茶色である.♀(1)翅形はagnisの場合tinnaに比べ,前知外翅中央の凹みが強い.(2)翅表の地色はagnisでは黒茶色がとくに強く,濃淡の差があるが,tinnaの場合ほぼ均一の茶色.(3)翅裏の地色は両種とも茶色であるが,色調はagnisのほうが明るい.(4)前翅の白斑列はagnisでは消失するか薄くなるが,tinnaでは第1b室に明瞭である.(5)後翅はagnisでは第7室にわずかの白色部分を有するのみであるが,tinnaの場合大きく明瞭な白帯を有する2.パルピ両種とも同一形で,先端部に針状突起はない.3.アンテナ両種とも同一で,先端部の表面は黒色,裏面は褐色を呈する.4.♂ゲニタリア図26(E.agnis modesta,S.Sumatra),図27(E.tinna agniformis,N.Sumatra)に示すように,valvaの形状にやや差があるものの,両種に基本的な相違は見られない.まとめ筆者らが得た標本,各博物館の所蔵標本および文献に検討を加え,いわゆるEuthalia(Euthalia)agnis(Snellen van Vollenhoven,1862)(Rhopalocera,Nymphalidae)は種agnisと種tinnaの2種に分けるのが適当であるとした.