著者
林 思敏
出版者
東京外国語大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2003

台湾総督府の官房外事課・調査課の設置、再編、調査活動、そして対岸領事打合会議の実態を考察するとともに、総督府の外郭団体としての南洋協会、南洋協会台湾支部と台湾南方協会を取り上げて検討した。まず、外交関係の事項と南支・南洋の調査に取り組む官房外事課の復活(1935年9月)およびその後の拡大は、台湾総督府による南方調査の拡充・深化を示している。官房外事課は1938年に官房外務部へ、さらに1940年には外事部へと昇格するが、それによる組織の拡大や、分掌事項の細分化、また外務省出身の外事課長の起用などからは、台湾総督府の南支・南洋の経営への自信と自負心が見られる。しかし同時に、外務省・軍部との間の摩擦を最小限にとどめることに努力している側面も読み取れる。また、領事を総督府の嘱託にしたり、あるいは兼任させたことや、対岸領事打合会議を開催したことは台湾総督府の内外の情報ネットワークの構築において非常に重要な役割を果たした。ただし、それに対する外務省の評価は必ずしも高くなかった。南洋協会においては田健治郎総督と内田嘉吉民政長官が、総督府の首脳部として、その創立発起人、会頭、副会頭などの重役を務めた。また、台湾総督府から持続的かつ多額な補助金の給付を受け、かつ民政長官または総務長官が台湾支部長を兼任し、南方関係の講演会、語学の講習会や図書刊行などを行なった。そこからは、台湾総督府の南進政策における南洋協会の占める位置の重要性が確認できる。また、台湾南方協会は、南方関係の資料・情報の収集、南方講習会・展覧会・講演会の開催、南方進出者の助成、就職斡旋、南洋人の招致指導などにも積極的に取り組んだ。そのほか、同協会によって設置されたものとしては財団法人南方資料館がある。ここには南方関係の図書が多く集められたが、台湾総督府の官営色も濃かった。要するに、台湾総督府は外務省との関係をうまく維持しようとしつつも、自らの意志に基づき、南進の準備を経営していたのである。しかしながら、昭和期の「国策ノ基準」の決定、日中戦争の勃発、「東亜新秩序」の発表、そして「大東亜共栄圏」構想などが、日本の南進政策を大きく転換させることになった。そして、日本政府の南進政策が、基本的には台湾総督府の南方研究を基盤の上で行なわれていくことになる。同時に、戦争遂行のため、台湾総督府の南進政策が次第に「国策」に組み込まれたことによって、外務省・軍部の関与が次第に強力になり、南進における台湾総督府の自主性と独自性が喪失していくことになったのである。以上の研究は台湾総督府の南進関係の部局と外郭団体についてまとめたものである。