著者
栗田 岳
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.7, no.1, pp.16-31, 2011-01-01

連体形終止、及び、連体形+ヨの終止には、述語にム・ラム・ケム(=ム系)を持ちつつ、推量・意志の文とは解しがたい例を見るが、それらは、以下の2類に区分される。・I類言語主体の推量・意志の作用とは関わりなく構成される未来事態を表すもの。・II類言語主体にとって、本来在るはずの姿とは齟齬する既実現の事態を表すもの。I類に表される未来事態とは、言語主体に思い描かれることによってのみ存在する事態である。一方、II類の言語主体は、本来在るはずの姿と齪齬する事態に惑い、改めてその存在を思い描くものと考えられる。以上より、これらI類・II類のム系は「事態が現実世界に存在することを思い描く」作用(=「設想」)を担う形式であると結論する。
著者
栗田 岳
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.17-31, 2010-03-01

『紫式部日記』の「才さかし出ではべらむよ」という一文(「当該箇所」と称する)について、「さかし出づ」と「むよ」の実例を調査し、以下の結論を得た。まず、当該箇所に見られる「さかす」は、「【才】を盛んな状態にする」意である。さらに、それが「出づ」と複合した結果、「【才】を【さかす】ことによって、【才】が表に【出づ】」という構造を成す。したがって、「才さかし出づ」とは、「才知を盛んな状態にすることによって、その才知が表に現れる」の如く解釈するのが適当である。一方、述語にムヨを持つ文には、言語主体の、「自身の当然とするところから外れた事態が、未来時において避けがたく生じてしまう」という判断を表す例があり、当該箇所も、その一つと見られる。以上を総合するに、当該箇所とは、「宮中で才知を働かせて、それが人の知るところになる」という事態は、謙抑を当然とする自分本来の姿からは外れているけれど、その事態がこの先に生じてしまうことは避けがたい、と嘆息する文である。そして、この解釈は、当該箇所に続く『紫式部日記』全体の文脈と調和している。
著者
栗田 岳
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
巻号頁・発行日
2012-10-25

報告番号: ; 学位授与年月日: 2012-10-25 ; 学位の種別: 課程博士 ; 学位の種類: 博士(学術) ; 学位記番号: 博総合第1174号 ; 研究科・専攻: 総合文化研究科言語情報科学専攻