著者
桑村 栄治
出版者
久留米大学
雑誌
久留米大学文学部紀要. 国際文化学科編 (ISSN:09188983)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.83-122, 2003-03

本稿は、朝鮮一五世紀後半の成宗代に時期を限定し、朝鮮国王が毎年正朝と冬至に王宮の正殿にて実施した対明遥拝儀礼(望闕礼)の実態を整理・分析したものである。永世遵守の基本法典である『経国大典』には「正至・聖節・千秋節に殿下は王世子以下を率いて望闕礼を行う」と定めるが、国喪期間、国王の病気、そして雨雪など悪天候の場合、朝鮮国王はやむをえず望闕礼の実施を停止した。しかし、世宗代の晩年期と世祖代の一時期のように、王世子または文武百官がこれを代行することはない。望闕礼の停止と代行に関する規定が『経国大典』はもちろん、国家儀礼のテキストである『国朝五礼儀』にも存在しないのは、朝鮮国王と儒者官僚が望闕礼の実施を王朝国家における当然の国事行為と考えていたからである。正朝・冬至の儀礼空間は朝鮮国王の美徳と権威を内外に誇示する格好の場となり、望闕礼終了後の朝賀礼と会礼宴には、受職女真人をけじめ日本・琉球からもさまざまな通交者が参席して華を添えた。これら「朝貢分子」の代表格が朝鮮の藩屏を自称する対馬宗氏である。朝鮮政府が野人を厚遇した背景には辺境の防備という現実的な軍事問題があり、倭寇対策として倭人を撫接する外交政策と相通ずる。成宗は一五世紀朝鮮の歴代国王のうち、もっとも忠実に望闕礼を実施した国王であった。朝鮮国王はみずからが帝都北京に赴いて大明皇帝に拝謁することに代え、王都漢城から王世子・文武百官とともに遠く明帝を遥拝した。望闕礼は朝鮮国王にとっては対明外交儀礼であり、君臣間の儀礼的関係を百官の前で示す装置としても機能していたのである。