著者
桑野 栄治
出版者
久留米大学
雑誌
久留米大学文学部紀要. 国際文化学科編 (ISSN:09188983)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.105-143, 2007-03

本稿は一六世紀前半の朝鮮中宗代に時期を限定し、毎年正朝・冬至・聖節・千秋節に王宮の正殿にて明帝を遥拝する望闕礼、ならびに異域からの使者が集う朝賀礼と会礼宴の実施状況について、官撰史料を中心に整理・分析したものである。クーデタにより即位した中宗は功臣会盟祭を優先するなど、かならずしも忠実に宮中儀礼を実施していない。三浦の乱の鎮圧後、靖国功臣と非功臣勢力という政治上の対立構図が瓦解すると、中宗一一年には倭人と野人を朝賀礼のみならず朔望の朝会にも随班させることが決定する。儒者官僚による成宗代への復古主義であり、倭人と野人を四夷からの「朝貢分子」とみなす華夷意識の表出でもあった。凶年と天災により控えられてきた貞顕王后のための豊呈の儀も翌年正朝に復活し、己卯士禍が発生する中宗一四年までは望闕礼→朝賀礼→豊呈とつづく正朝・冬至の宮中儀礼がほぼ定例どおり実施された。一方、中宗二三年冬至には王世子の望闕礼随班が実現し、ひきっづき王世子は百官を率いて朝賀礼を主宰した。朝賀礼の場には「日本国王使」 一鶚東堂も随班しており、王世子は「朝貢分子」の前で王位継承権者としての役割をつつがなく果たす。僞使は華夷意識から抜けだせない朝鮮側と、その事情を熟知して貿易の権益を求める対馬側の、相互のバランスのうえに成立していた。総じて、中宗が名節の対明遥拝儀礼を忠実に実施していたとはいいがたい。中宗二〇年の聖節を前に司憲府は近年の権停礼を非難し、中宗三四年の千秋節には中宗がこれまで聖節の望闕礼を権停礼により実施していたことを告白している。朝賀礼は権停礼による実施がなかば慣例化し、天災にともなう財政事情により会礼宴も激減した。むしろ前代の燕山君は望闕礼と朝賀礼に積極的であり、朝鮮初期の礼と法を確立した父王成宗はもっとも忠実に名節の宮中儀礼を実施したことがあらためて浮きぼりとなった。
著者
桑野 栄治
出版者
久留米大学
雑誌
久留米大学文学部紀要. 国際文化学科編 (ISSN:09188983)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.89-114, 2002-03

本稿は、「まれなる独裁者、世祖」と評される朝鮮一五世紀後半の世祖代を国家儀礼の側面から照射したものである。従来、世祖の王権についてはおもに圜丘壇祭祀の復活という側面から論じられてきたが、本稿では対明遥拝儀礼の実施状況とあわせて検討し、一五世紀ソウルの儀礼空間を通して世祖の王権を考察した。一四世紀末に朝鮮王朝を開創した太祖李成桂は、正朝と冬至に王都漢城の王宮から明皇帝の居城を遥拝することによって事大政策を標榜し、以後、この儀礼は第四代朝鮮国王の世宗代まで王朝国家の重要な国事行為として継続実施された。この対明遥拝儀礼を望闕礼といい、望闕礼を終了すると王宮内では異域(日本・女真・琉球)からの使節を取り込んだ朝賀礼と会礼宴が催された。ところが、世宗の死後、短命な文宗・端宗の時代をへて第七代朝鮮国王世祖が即位すると、正朝・冬至の国家儀礼のあり方に大きな変化が生じるようになる。世祖は、本来は中国の皇帝のみが行いうる祭天儀礼を王都漢城の南郊で実施し、その一方で明帝を遥拝する望闕礼を放棄した。世宗は晩年に望闕礼を王世子または百官に代行させていたが、世祖は王世子による代行さえ認めなかったのである。にもかかわらず、朝賀礼と会礼宴は王宮内で盛大に催され、とりわけ王権の強化につとめた即位のはじめには五〇〇名余りの「倭人」と「野人」を参席させるなど、世祖は「夷」をしたがえる皇帝を彷彿させる。一五世紀の儀礼空間を通してみた場合、世祖の治世年間は朝鮮時代史上、まれにみる時代であったといっても過言ではあるまい。
著者
桑村 栄治
出版者
久留米大学
雑誌
久留米大学文学部紀要. 国際文化学科編 (ISSN:09188983)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.83-122, 2003-03

本稿は、朝鮮一五世紀後半の成宗代に時期を限定し、朝鮮国王が毎年正朝と冬至に王宮の正殿にて実施した対明遥拝儀礼(望闕礼)の実態を整理・分析したものである。永世遵守の基本法典である『経国大典』には「正至・聖節・千秋節に殿下は王世子以下を率いて望闕礼を行う」と定めるが、国喪期間、国王の病気、そして雨雪など悪天候の場合、朝鮮国王はやむをえず望闕礼の実施を停止した。しかし、世宗代の晩年期と世祖代の一時期のように、王世子または文武百官がこれを代行することはない。望闕礼の停止と代行に関する規定が『経国大典』はもちろん、国家儀礼のテキストである『国朝五礼儀』にも存在しないのは、朝鮮国王と儒者官僚が望闕礼の実施を王朝国家における当然の国事行為と考えていたからである。正朝・冬至の儀礼空間は朝鮮国王の美徳と権威を内外に誇示する格好の場となり、望闕礼終了後の朝賀礼と会礼宴には、受職女真人をけじめ日本・琉球からもさまざまな通交者が参席して華を添えた。これら「朝貢分子」の代表格が朝鮮の藩屏を自称する対馬宗氏である。朝鮮政府が野人を厚遇した背景には辺境の防備という現実的な軍事問題があり、倭寇対策として倭人を撫接する外交政策と相通ずる。成宗は一五世紀朝鮮の歴代国王のうち、もっとも忠実に望闕礼を実施した国王であった。朝鮮国王はみずからが帝都北京に赴いて大明皇帝に拝謁することに代え、王都漢城から王世子・文武百官とともに遠く明帝を遥拝した。望闕礼は朝鮮国王にとっては対明外交儀礼であり、君臣間の儀礼的関係を百官の前で示す装置としても機能していたのである。
著者
桑野 栄治
出版者
久留米大学文学部
雑誌
久留米大学文学部紀要 国際文化学科編 (ISSN:09188983)
巻号頁・発行日
no.25, pp.51-78, 2008-03

本稿は朝鮮中宗代の前半期に時期を絞り、朝鮮と明とのあいだに生じた宗系弁誣問題をめぐる外交交渉の実相について、朝中の官撰史料である『朝鮮王朝実録』と『明実録』を中心に整理・分析したものである。宗系弁誣問題とは、太祖李成桂が政敵李仁任の子であり四人の高麗国王を殺害したとする明側の記録の修正を要求した、朝鮮前期の一大外交紛争である。朝鮮国王の正統性に関わるこの問題は太宗四年にいったん解決したかにみえたが、のち中宗一三年四月に朝鮮使節が『大明会典』を明から購入したことによって再燃した。皇帝御製の序文にはじまる『大明会典』の修正は容易ではないとの事情を予測しつつも、朝鮮政府はこの年七月に宗系弁誣奏請使として正使南衰・副使李〓・書状官韓忠の三使を帝都北京に向けて派遣した。あいにく正徳帝が行幸中であっため外交交渉は難航したが、奏請使一行はようやく礼部の咨文を獲得して中宗一四年四月に王都漢城に戻る。ところが、正徳帝の勅書は宗系改正を許可するのみで、王氏殺害の件には言及がなかったことから、再度奏請使を派遣すべきか、あるいは謝恩使を派遣すべきかで朝鮮政府の論議は紛糾した。そのうえ臺諫は奏請使の外交交渉上の失態を弾劾し、その三使も辞職を願い出るにいたる。少壮学者趙光祖は明確な判断を避けた中宗を諫めることもあったが、三使の辞職は取り下げられ、ひとまず謝恩使を明に派遣することによってこの問題は収束した。ただし、この年一一月に己卯士禍が発生するや李〓と韓忠は失脚し、南袞は左議政に昇進して明暗を分けた。正徳帝の在位中に『大明会典』が改訂されることはついになかった。謝恩使は帰国後、当時の明政府では言論によって皇帝権を抑制する機能が麻痺している、と報告している。こうした政治状況のなかで朝鮮使節が『大明会典』の修正を要請したとしても、礼部が正徳帝の裁可を仰ぎ、さらにこれを実行に移すには困難であったに相違ない。以後、この対明外交交渉は朝鮮政府にとって最大の懸案事項となる。
著者
与小田 隆一
出版者
久留米大学
雑誌
久留米大学文学部紀要. 国際文化学科編 (ISSN:09188983)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.39-52, 1993-06

(1)創作の自由が保証され,政治による干渉が最大限に緩和された中で出現した長篇小説『無冕皇帝』は,初めて文学界自身を批判の対象とし,拝金主義,道徳観念,法観念の欠如など文学界内部に現実に存在する問題を指摘した文学作品として意義を持つ.(2)作者蕭立軍に対し,中国作家協会は,極めて短期間のうちに,停職検査処分という「文学作品について政治的責任を問わない」との原則に反した,極めて異例の厳しい政治的処分を下した.そこには,中国作家協会の組織としての意図が働いていた.(3)この作品の出現,及びそれによって引き起こされた紛争は,現在の中国の文学が抱えている次のような二つの問題の存在を明らかにした.a.創作の自由,政治による干渉の排除ということが,そのまま直ちに文学の繁栄にはつながっていないこと.b.現在の中国の作家は,作家という「個人」としての立場と,作家協会会員という「組織の一員」としての立場との矛盾という問題を抱えており,これが創作活動に制約を加える要因ともなり得ること.
著者
桑野 栄治
出版者
久留米大学
雑誌
久留米大学文学部紀要. 国際文化学科編 (ISSN:09188983)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.61-105, 2004-03

本稿ではまず、『高麗史』礼志を手がかりに高麗における名節の賀礼を俯瞰する。ついで対象時期を一四世紀後半の高麗末期にしぼりこみ、朝鮮初期に実施された対明遥拝儀礼の原型を元・明交替期に求むべく追跡調査した。高麗の王都開京では一一世紀半ばまでには朝賀礼→賜宴とつづく正朝・冬至の国家儀礼が実施されていたが、宋・遼(契丹)に対する遥拝儀礼は確認できない。それゆえ、当時の東アジアにおける国際環境にあっては高麗と宋・遼が垂直の君臣関係にあったとはいいがたい。一三世紀後半になると、元帝の女婿となった忠烈王は正朝に「群臣を率いて遥かに正旦を賀う」儀礼を実施し、正月朔望と聖甲日(本命日)には元帝に対する仏教儀礼を寺院にて執り行った。しかし、忠烈王は正朝を元の大都で迎えることが多く、元干渉下の高麗社会にこれらの儀礼が定着することはなかった。遥拝儀礼の画期となるのが明の太祖洪武帝の即位、そして高麗国王の冊封体制への参入である。一三七二年冬至に恭愍王は明帝を遥拝する儀礼を実施し、王宮では万歳三唱ののち、百官は朝賀礼を実施して盛大に祝った。これこそ朝鮮王朝開創直後に開城で実施された対明遥拝儀礼の原型であり、洪武帝が「蕃国の礼」として制定した「聖節・正日丁冬至に蕃国が闕を望みて慶祝するの儀」の受容と実践である。中華帝国の礼制が高麗における外交儀礼のあり方まで規制したことを意味する。恭愍王の死後、しばらく高麗政府は北元と明との外交政策をめぐって揺れ動いたが、高麗最末期の恭譲王代には対明遥拝儀礼→朝賀礼→賜宴の順に国家儀礼が執り行われた。そしてまもなく王朝交替を迎える。