著者
梅本 順子
出版者
日本大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2007

多方面において人道的、かつ教育的に活動した牧師、田村直臣という人物の足跡を、The Japanese Brideに代表される日本の風習や習慣を紹介するための英書の発行や、それに先立つ童話集の翻訳などの仕事を中心に、文化の受容、発信という視点からたどった。田村の多様な活動の背景には、四年あまりのアメリカ留学と、帰国後も五年に一度の割合で海外に出かけた経験がある。当時まれにみる国際人として、幅広い知識と卓越した語学力で日本文化を発信、かつ西欧の文化の受容と紹介に努めたことが明らかとなった。田村が先駆者となったものとしては、宗教教育の実践、児童文学の翻訳の際の言文一致体の導入などが挙げられる。また、アメリカでのThe Japanese Brideという英文書籍の出版は、新渡戸稲造の『武士道』よりも早い。日本女性の窮状を、結婚をテーマに紹介した同書には、当時すでに男女平等を説く、田村の思想が表れていた。そのため、同書を日本で翻訳・出版するとなると、保守派のみならず、日本基督教会側からも圧力がかかった。それが「花嫁事件」であり、田村は牧師職の剥奪という処分を受けるが、独立教会の牧師として、「児童」と「女性」の問題に生涯にわたって関わり続けたのだった。
著者
梅本 順子 平川 祐弘 牧野 陽子 河島 弘美 遠田 勝 劉 岸偉
出版者
日本大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2003

今年度は3年間のまとめの年であり、それぞれが書物や論文にまとめると同時に、これまでの資料を補完するべく、アメリカに出張した。昨年のハーン没後百年のシンポジウムに見られるように、ハーンの再評価が目覚しい。当プロジェクトも、異文化理解が進むと文学も雑種化の道を辿るということを前提にハーン他の作家を取り扱った。ハーンは日本に帰化したこともあって、この視点からはその先駆者として位置づけられる。ハーンは英文学やフランス文学にも造詣が深かったが、マルティニークをはじめとした西インド諸島滞在や晩年をすごした日本での経験から、その文学は世界文学とも呼べるほど多くの要素を取り入れたものになった。とりわけ、日本の伝説や昔話を受容して、彼なりの解釈を付け加え、それを英語で書き直したのだった。その視点からは、新しいハーン像が窺われる。西洋近代文明の名の下に、アジアやアフリカの独自の文化が押しやられそうになっていた百年あまり前に、西洋人でありながら、その優位性に押し流されることなく、いわゆる異文化に関心を示した人物がいたことに着目した。ハーン以降、この視点で異文化理解を積極的に行ったものとして、ストープスと周作人が挙げられる。アーサー・ウェイリーより先に日本の能に目を向けたストープスの活動と、日本留学でハーンの存在を知り、「日本は自国文化のよき理解者であり伝達者である人物を得た」と評価した周作人の中国での対応を追った。このように、数こそ多くはないが、異文化理解に積極的に携わり、同化に関わった人物がいたことを再確認し、彼らの努力が現在とどのように結びついているのか、また彼らの足跡をどのように理解すればよいのか、という視点に立ってこれらの人物の日本文化への貢献を定義することに努めた。また、ハーンの足跡を辿るとき、ハーンの友人たちが著した伝記や、公開に同意した書簡、ならびにそれを基にした書簡集の存在が大きな役割を果たしてきたことから、ハーンと直接交渉があった人々を調査した。さらに、直接の交渉こそなかったが、ハーンの遺族と文通し、後世のハーン研究者の伝記執筆の際にアドバイスしてきた、ハーン研究家のドロシー・マクレランド(1897-1995)の未発表の資料についても調査した。