著者
森田哲至
出版者
日本橋学館大学
雑誌
日本橋学研究 (ISSN:18829147)
巻号頁・発行日
vol.4, no.1, pp.5-32, 2011-03-31

昭和歌謡のヒット第1号となった『波浮の港』は、新民謡の1曲であった。新民謡とは、野口雨情、中山晋平等によって大正末期から昭和13年(1938年)頃までに起こされた文化運動による大衆歌謡のー形態である。西洋から入った民俗学的な気運を受けて、日本の土俗的な民衆の心持ちを民謡詩に表現した野口雨情、北原白秋等の詩人たちが、西洋音楽を学んだ中山晋平、 藤井清水等の作曲家たちに大きな影響を与えた。晋平や清水たちは、その影響を受けて民謡に興味を抱き、江戸時代からの伝統邦楽の三味線音楽やユリ歌唱の特色を五線譜に反映する作曲法を開発した。これらの詩人・作曲家によって、新民謡という日本歌謡に新たなジャンルが形成されたのである。当初、新民謡運動の歌手は、西洋音楽の教育を受けた佐藤千夜子や四家文子等の声楽家出身者であったが、日本の伝統音楽である邦楽や民謡を江戸時代から継承してきた日本橋葭町等の芸者たちが、次第に新民謡のレコード歌手として起用されるようになり、「鶯芸者」と呼ばれた。 日本橋葭町の芸者である二三吉や勝太郎たちは、民衆の力強い支持を得て「新民謡の歌手」および「流行歌の歌手」となって、古賀メロディーに代表される流行歌と大衆との聞の橋渡しと下支えの役割を担い、昭和歌謡の大きな礎石となった。彼女たちは、昭和歌謡の六十余年の長い歴史の中で、その礎を構築する時期に多大な貢献をしていたのである。
著者
森田哲至
出版者
日本橋学館大学
雑誌
日本橋学研究 (ISSN:18829147)
巻号頁・発行日
vol.5, no.1, pp.35-51, 2012-03-31

明治末期から大正初期に日本橋高等女学校で学んだ天野喜久代は、昭和初期に日本最初の女性ジャズ歌手となった。彼女は同校を卒業する前に、帝国劇場の洋劇部に研修生として入り、イタリア人で振付師兼演出家のローシーや世界的に有名になったプリマドンナ三浦環から、オペラ女優となるための声楽・舞踏・演技の指導を受けた。ところが、帝劇オペラの奥行成績は不振を極め、洋劇部は数年で解散となってしまった。演技をする場を失った天野は、脚本家、演出家兼俳優の伊庭孝と作曲家の佐々紅肇に出会った。彼らは一般大衆に理解されるオペラを創作することによって時代を切り開く先端的芸術運動を試みており、天野はその二人から影響を受け、浅草でオペラ女優として活躍する。彼女はモダン化される大都市東京で大衆の心を捉えようと、舞台だけでなくお伽歌劇のレコードにも挑戦し、先駆的な活動を続けた。彼女は、この時に培った能力で、昭和初期には日本最初の女性ジャズ歌手としてラジオやレコードに登場し、昭和歌謡にモダンな旋律とリズムを提供する役割を果した。本稿では前編として、大正期における彼女のオペラとお伽歌劇での活動の軌跡を迫ってみた。