著者
椎名 健人
出版者
京都大学大学院教育学研究科
雑誌
京都大学大学院教育学研究科紀要 (ISSN:13452142)
巻号頁・発行日
no.65, pp.201-218, 2019-03-27

明治・大正時代の小説家、夏目漱石と彼の元に1903年から1909年頃に集った当時東京帝国大学在学中の門下生たちが形成していた文学サロン的共同体(=「木曜会」共同体)を、日本で明治30年代からその形成と自律化を始めた「文学場」における党派の一つとして位置付けたうえでその共同体としての性質を、イヴ・セジウィックが『男同士の絆 イギリス文学とホモソーシャルな欲望』で提唱したホモソーシャルという枠組みを用いて分析し、明治末期から大正初期にかけての文壇及び学生・知識人文化圏内における社会的ネットワークの特質を社会学的観点から明らかにする.
著者
椎名 健人
出版者
京都大学大学院教育学研究科
雑誌
京都大学大学院教育学研究科紀要 (ISSN:13452142)
巻号頁・発行日
no.66, pp.325-348, 2020-03-26

明治・大正時代の英文学者及び作家である夏目漱石とその門弟たちが織り成していた共同体(=「木曜会」)における師弟関係のあり方について社会学的観点から分析する。日本文壇内部における共同体の性質が1905年前後を境に硯友社的なギルドから大学教育を受けた人間による知的サロンへとその形態を変化させる中において誕生した文学サロンの一つである「木曜会」は、実質的には1903年-1916年まで機能したが、そこに集まった漱石門弟はそれぞれの世代ごとに異なる特徴を持っている。「木曜会」における師弟関係の構造と変容を分析することによって、アカデミズムと結びつく形で社会的権威を獲得していくに際して漱石とその門弟たちが果たした役割と、後に大正文壇の中心を担った芥川龍之介らの作家たちの文学的野心の起源について明らかにする。This study analyzes the mentoring relationship between Sōseki Natsume, a novelist and a scholar of English literature in the Meiji and Taishō Period, and his pupils from a sociological viewpoint. The nature of the community within the Japanese literary world changed its form from a guild-like form to an intelligent salon with university education around 1905. Although "Mokuyoukai", , " an intellectual salon by Soseki and his pupils, lasted from 1903 to 1916, members of "Mokuyoukai" had different characteristics for each generation. This study analyzes the structure and transformation of the mentoring relationship in ""Mokuyoukai", , " and clarifies the role played by Soseki and his pupils in acquiring the social authority of the literary world in connection with academia, as well as clarifying the origin of the literary ambitions of authors, such as Ryūnosuke Akutagawa, who played a central role in the literary world in the Taishō period.
著者
椎名 健人
出版者
京都大学大学院教育学研究科 教育社会学講座
雑誌
教育・社会・文化 : 研究紀要 = Socio-Cultural Studies of Education (ISSN:13404008)
巻号頁・発行日
no.20, pp.19-28, 2020-03-23

2019年9月現在放映中の『なつぞら』で通算100作目を迎えるNHK朝の連続テレビ小説(以下、朝ドラ)は、1961年の第1作『娘と私』放映開始から現在まで50年以上途切れなく続き、そのほとんどが女性を主人公として、その内面や成長、人生を描き続けてきた。朝ドラに見られるこのような傾向については「近代社会において典型的な「成長物語」として流通したビルドゥングスロマン」(稲垣他, 2019)の一類型として捉える分析があるほか、(黄, 2014)は第1作『娘と私』から第87作『あまちゃん』までの極めて詳細な分析のもと、「戦争を生き抜く女性・母親」のドラマという要素を朝ドラの最も大きな特徴の一つと結論づけている。しかし(黄, 2014)、(牧田, 1976)らも指摘するように、現在朝ドラの代表的な特徴と捉えられている「女性主人公の人生や成長の物語」という枠組みは、実際には朝ドラ史上初めて「女主人公の一代記」というフォーマットを試みた第6作『おはなはん』(1966年)の記録的なヒットを受けて確立した様式である。第5作目『たまゆら』以前には高齢の男性を主人公に据えるケースがしばしば見られるなど、今の朝ドラのイメージとは大きくかけ離れた作品も多く存在した。本稿は朝ドラ第1作『娘と私』(1961年)から第6作『おはなはん』(1966年)までを分析の対象として、朝ドラの制作者側がどのような意図をもって「テレビ小説」企画を立ち上げ、また作品の方向性を定めていったのかについて、当時の民間放送局のドラマ制作体制との比較なども交え、主に小説への意識と映画への志向の二点を中心に考える。また当時の映画雑誌、テレビ雑誌における評論家の朝ドラ評を参照し、同時代の朝ドラがどのような受容のされ方をしていたのかを考察する。さらに後半では1961年-1966年の民放のテレビドラマを取り巻く状況について確認しながら、映画界とテレビ局の関係性の中でNHKの朝ドラが占めていた特殊な位置についても考察する。