著者
中野 祐司 榎本 嘉範 東 俊行
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.77, no.6, pp.346-354, 2022-06-05 (Released:2022-06-05)
参考文献数
75

80–90年代に加速器施設に建設された原子分子物理用のイオン蓄積リングは,重イオン物理や分子科学において多大な成果をあげてきた.近年,これらのリングの多くが当初の役割を終え,姿を変えて第二の生涯を歩み始めている.その背景には,原子分子物理の研究の場が,高エネルギー(MeV~GeV)の磁場型リングから低エネルギー(keV)の静電型リングへ移り変わってきたことがある.原子分子の反応は素粒子や核物理のように高エネルギーを必要としないのでビームのエネルギーはkeV領域で十分であり,この程度のエネルギーであれば電場で制御することができる.磁場型リングではイオン質量に応じて磁場を強くする必要があったのに対し,静電型リングで必要な電場強度はイオン質量に依存しないため,多様なイオンビームを蓄積することが可能である.さらに電磁石が不要なため装置を実験室サイズに小型化することができる.大型の国際計画へと巨大化していく加速器や宇宙科学とは好対照に,大型加速器から生まれた蓄積リングの技術が多様化と小型化を遂げた結果,世界各所でバラエティ豊かな研究が展開されるようになった.原子,分子に関する基礎研究をはじめ,クラスターや生体分子を対象としたダイナミクス研究,星間分子反応の実験研究など,様々な研究分野にまたがる新しい発見がたくさん得られた.このようななか,電子,振動,回転状態がいずれも基底状態に冷却された「単一量子状態の分子イオン」による新しい物理の探索を目指して次世代リングの検討が始まり,3つの拠点で極低温静電型イオン蓄積リングDESIREE(Stockholm大学),CSR(Max Planck原子核研究所),RICE(理化学研究所)の開発が進められてきた.いずれのリング開発も真空容器そのものを10 K以下にまで冷却することで熱輻射を遮断し,さらに10-10 Pa以下の極高真空を実現して長時間のイオン蓄積を実現しようとする野心的な計画であった.各リングとも5~10年にわたる開発期間を経て,2010年代に入って装置温度10 K以下を達成し,数100秒以上の長時間にわたる分子イオンの安定蓄積に成功した.2017年,極低温リング内での分子の冷却が初めて観測された.DESIREEとCSRのグループは,蓄積したOH-分子イオンの光電子脱離スペクトルから振動回転状態の占有率を見積もり,最大で99%以上もの分子イオンが基底状態に冷却される様子を捉えた.我々の開発した極低温リングRICEでは3原子分子イオンN2O+の高分解能分光によって,孤立分子の状態分布が刻々と変化する過程を追跡することに成功した.極低温リングの登場によってこれまで見ることのできなかった孤立分子の冷却ダイナミクスが明らかになってきたとともに,冷却分子イオンビームを利用した実験研究が現実のものとなった.冷却分子およびその量子制御を利用した研究展開として,RICEでは中性原子ビーム,DESIREEでは負イオンビームとの相互作用を観測するためのセットアップが進行中である.CSRでは冷却分子と電子の衝突実験が行われ,初期宇宙の原子分子過程として重要なHeH+の解離性再結合反応および回転状態依存性が初めて観測されるなど,重要なマイルストーンが達成された.