- 著者
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橋本 政宣
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.148, pp.289-329, 2008-12-25
江戸幕府により寛文五年(一六六五)七月十一日付で出された「神社条目」により、卜部吉田家はこれをテコに諸国の神社・神職を支配下におくべく、神道裁許状の交付、官位の執奏等を通してその推進をはかった。そしてその根拠としたのが、第三条および第二条であった。しかし第二条の条文には吉田家が格別の位置にあることが記されてはいなかったことからくる限界もあった。そこで、吉田家では、諸社家の官位執奏権を公認されるよう寛文八年十月出願するにより、幕府は京都所司代をして朝廷の評議を要める。かくて時の関白鷹司房輔と吉田家に肩入れする武家伝奏飛鳥井雅章との問で激しい論争が展開されることになるが、朝廷内の意見は一致をみないまま、翌々年八月幕府の裁許に委ねられることになる。そしてそれより四年後の延宝二年(一六七四)に至り幕府の結論が出される。「寛文九年吉田執奏一件争論」といわれるものがこれであり、幕府は儒者林春齋(弘文院)にこの一件に関する勘文を上呈させ、『吉田勘文』として纏められている。本稿は、『吉田勘文』を具体的に検討し、執奏一件争論の実態を明らかにすることを通し、吉田家の諸社家官位執奏運動の方針、朝廷や幕府の対応の在り方を明らかにし、「神社条目」の理念について改めて考察するものである。この一件につき、京都所司代を以て幕府の裁許が示されたのであるが、これは吉田家の望みが全くは否定されたものではなく、幕府の方針の転換であったともいえる。一方、吉田家でも諸社家の官位執奏問題はその後も主張を継続していき、幕府もその対応を微妙に変えていく。最後に、幕末までの大きな流れに基軸をすえ見ておいた。