- 著者
-
武田 真滋
- 出版者
- 一般社団法人 日本物理学会
- 雑誌
- 日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
- 巻号頁・発行日
- vol.77, no.3, pp.136-144, 2022-03-04 (Released:2022-04-05)
- 参考文献数
- 39
統計物理系の物理量を計算するうえでモンテカルロ法は非常に有効であり大きな成功を収めてきた実績がある.しかし,この方法ではボルツマン因子を確率として扱うため,もしそれが負または複素数の場合はこの方法はそもそも使えなくなってしまう.これを一般的に符号問題と呼ぶ.この問題は計算科学の様々な場面で顔を出し,多くの研究者を悩ませてきた.実際,この問題に対抗すべく多種多様なアイデアが提案されては結局は失敗するという無残な光景がしばらくの間繰り返され,さらには,符号問題解決という切実な願いを踏みにじるように,この問題はNP困難であることが証明されてしまった.つまり,符号問題を打ち負かそうとどんなに工夫をしようが,一見封じ込めたようにみえたとしても,別の形でしっぺ返しがくることを予見している.ということは,符号問題のために解析することが難しいモデル,例えば素粒子物理学の中でいえば,有限クォーク数密度QCDやカイラルゲージ理論などの非摂動的ダイナミクスを第一原理計算によってうかがい知ることは不可能なのだろうか? もちろん,答えは否である(と考えたい).実際,NP困難性は符号問題に対する一般的な解法の存在を否定しているだけであり,特定のモデルや理論に対する個別の回避法の存在は否定していない.符号問題の回避策の一つとして最近注目を集めているのがテンソルネットワーク法である.その特徴は,特異値分解に基づく定量的な情報圧縮と実空間くりこみ群による物理自由度の粗視化のアイデアを取り入れている点である.物性系では,量子多体系の変分問題を解く方法として,素粒子系では主に,経路積分を直接評価する方法として発展している.一方,テンソルネットワーク法の課題に目を向けると,2つの問題が残されている.1つ目は,高次元系での計算コストが非常に高くなるという問題である.2次元系ではモンテカルロ法と並ぶ,あるいは場合によってはそれを凌ぐような精度を達成しているのに対し,そのコストが次元に関して指数関数的に増大することから高次元系での研究は低次元系ほどは進んでいなかった.しかし,近年,コスト削減アルゴリズムの開発が特に日本を中心として活況を呈しており,現在利用可能な計算資源でも単純な内部自由度をもつ系であれば,3ないしは4次元系における精密計算も視野に入ってきた.今後は,コスト削減のために犠牲となった近似精度の向上が鍵となるであろう.2つ目の課題は情報圧縮の可否の問題である.どのような系でもテンソルネットワーク法を適用すれば情報圧縮が可能であるという保証はなく,現在のところその可否を個々の系で調べるしかない.よって,理論空間の中でモンテカルロ法でもテンソルネットワーク法でもアクセス不可能な領域が存在するかもしれない.それら以外の方法でも解析できないような理論が存在するのだろうか,など計算の可能性という観点から問題を掘り下げるのも興味深い.今後はテンソルネットワーク法を進化させてその実績を積み上げるのはもちろんのこと,その概念的な位置づけの理解を深めていくことも重要なテーマになるであろう.