著者
江野沢 一嘉
出版者
信州豊南短期大学
雑誌
信州豊南短期大学紀要 (ISSN:1346034X)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.B1-B41, 2003-03-01

「士師記」の記述からわれわれが脳裏に描くサムソンの人間像とミルトンの『闘士サムソン』が読者に印象づけるサムソン像との間には、かなりの相違が認められる。士師サムソンは、腕力こそ強いが、わがままで、その行動は、しばしば幼児的、かつ、直情径行的である。それに対して、『闘士サムソン』に登場する主人公サムソンは、ペリシテ人に捕らわれて、眼をえぐりとられ、足枷をはめられて、過酷な労働を強いられる奴隷である。しかし、サムソンを悩ませているのは、この奴隷的境遇が彼に与える肉体的苦痛というよりは、むしろ、そのような境遇を招いた根本的な原因が彼自身の<人間的な弱さ>にあるとの自覚である。その自覚のゆえに、サムソンは痛恨・自責の念に苛まれているのである。サムソンは同胞の慰問者たち (コロス) の同情や、息子を身代金と引き換えに救出するという父親 (マノア) の提案を拒否する。彼は自分を裏切った妻 (ダリア) が現れて、夫との和解を求めても、その訴えをすら拒否する。このように、導入部に続く5つの場面のうち最初の3つを特徴づけるのは、サムソンの、頑なとも言える拒否行動である。第4の場面では、ペリシテ陣営の卑劣漢 (ハラファ) が現れ、サムソンを嘲笑する。サムソンも侮蔑的な言葉で応酬する。最後に、ペリシテ人の役人が現れ、サムソンを闘技場に召喚する。ところがサムソンは、最初こそ、拒否するが、最後には召喚に応じるのである。<拒絶>から<受諾>への主人公のこの転換をどう解釈すべきか?ここで、ミルトンが『闘士サムソン』を執筆した時期と動機が問題になる。執筆の時期と動機については、研究者の間で諸説があり、筆者の見解も憶測の域を出ないが、筆者はミルトンの初婚の躓きを重視したい。初婚の相手メアリが、新婚早々、里帰りをしたまま、夫のもとに帰ろうとしなかったのは1642年の夏である。再三の手紙による夫の帰宅要請をメアリが無視したことにミルトンは「大いに怒って」「離婚論」の執筆に着手したという (エドワード・フイリップス)。この時、ミルトンが痛感したであろう<女性不信>は「闘士サムソン」のダリラに対する激しい拒絶反応と無関係ではないと筆者は考える。ミルトンのメアリとの疎遠は、後日、彼女が夫に詫びを入れ、彼がこれを受け入れたことで一件落着を見る (1645)。拙論は、この間のミルトンの心理的推移を『闘士サムソン』の主人公の心境の変化と関連づけて解釈しようとするものである。サムソンがペリシテの役人の闘技場への出場命令を、最初は拒否しておきながら、最後には受諾したのはなぜか。筆者は、サムソンは役人の2度目の命令を受諾した時点ですでに、現実<拒絶>から現実<受容>へと精神の転換を遂げていたと考える。<理想>と<現実>の狭間で果敢に<理想>を追求したミルトンには、不可避的な<現実>に直面した時、これを一種の諦念をもって甘受する度量があった。メアリとの初婚の躓きはミルトンに癒しがたい精神的苦痛を与えたが、彼が妻との和解に同意したのは、人間ミルトンの度量の大きさを示すものである。一方、自らの<愚かさ>が招いた過失が己れ自身の精神的未成熟に起因することを自覚したサムソンは、闘技場に向う直前になって、はじめて崇高な人間の姿を見せる。ミルトンと同様にサムソンもまた成熟に達したのである。サムソンはミルトン自身の自己投影なのである。
著者
江野沢 一嘉
出版者
信州豊南短期大学
雑誌
信州豊南短期大学紀要 (ISSN:1346034X)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.A1-A41, 2002-03-01

論争家としてのミルトンの著作は (1) 第1期 (1641-42)、(2) 第2期 (1643-45)、および (3) 第3期 (1649-60) に分けて考察するのが便利であろう。第1期は Of Reformation in England から An Apology for Smectimnuus にいたる一連の「監督制批判」文書である。第2期は The Doctrine and Discipline of Divorce から Colasterion にいたる一連の「離婚論」文書と言論の自由を主張した Areopagitica である。第3期は The Tenure of Kings and Magistrates から The Ready and Easy Way to Establish a Free Commonwealth にいたる「共和制弁護論」である。拙論では、このうち第1期を特徴づけるミルトンの論争術の特質を彼の宗教的信念との関連において考察する。「監督制批判」文書はおおむね古典修辞学でいう「荘重な文体」(grand style) の見本とも言うべきものではあるが、論理的構造は、透明なものから不透明なものまで、さまざまである。その錯綜した文章構造は、ミルトン以後、イギリス散文の主流をなした「平明な文体」(plain style) とは際立った対照をなし、今日の読者には、少なからず抵抗を感じさせるものであろう。立論の根底には、プロテスタント特有の歴史認識と聖書観が認められる。ミルトンは、この時期、王権に寄生して世俗的権力をほしいままにする監督制に対して仮借なき攻撃の矛先を向けたが、王権自体についてはこれを容認していたと思われる。しかし、0f Prelatical Episcopacy に見られる通り、彼が監督制に対抗する教会統治方式として長老制を支持していたことも明らかである。第1期, ミルトンの思考の中で共存していたこの二つの構想が、第2期から第3期にかけて彼の思想が急速に急進化していく過程で廃棄を余儀なくされたのは、皮肉な成り行きであった。