- 著者
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淺香 幸雄
- 出版者
- The Association of Japanese Geographers
- 雑誌
- 地理 (ISSN:21851697)
- 巻号頁・発行日
- vol.5, no.1, pp.14-32, 1942-06-10 (Released:2010-03-19)
- 参考文献数
- 23
一、清見潟西岸地域の辻・江尻兩部落の境界を見ると、江尻町東側地先海岸地域は、凡て北方の辻村に所屬し、江尻町は海岸線に部落疆域を直接臨ましむることなく、巴川以北の舊東海道沿ひ以西北地區を部落疆域とし、一見特異な部落疆域をなしてゐる。二、本稿は右境界線而して部落疆域の政治經濟地理學的研究であり、境界劃定になる係爭經過並にその裁許に大量的な關聯性を見出す諸要因を考察した。資料は關係兩部落並に附近諸部落所藏の舊幕時代の文書・古記録によつた。三、係爭經過1. 辻・江尻兩部落の南限決定 兩部落南方の現入江受新田の地域は、正保四年 (二三〇七年) 以來幕府の御舟手用地 (關船藏用地) とされてゐたが、元祿十一年 (二三五八年) 關船廢止に際しその用地跡の歸屬に關し、北方より辻・江尻兩部落、南方より巴川西岸の清水町とが共に自己部落に所屬方を願出でた。北方の兩部落は右御舟手御用地は收用以前に於て、既に辻村は田畑、江尻は畑・松林・草苅場としての利用してゐた實績を理由として、右收用前に復歸方を主張し、巴川の郡界河川たることをも附加して強調した。清水町は湊稼・漁稼用地として缺くべからずとして出願した。裁許結果は右三者の何れにも歸屬せず、位置的には中間地區であり、右關船本庫の所在地たりし入江町御預地となり、北方兩部落の南限が決定した。2. 徳川初期に於ける江尻宿東側の海岸地形を見ると現東海道線附近 (補遺第一圖) には簡單乍らも波除堤が設けられてあり、汀線はこの浪除堤の直下で、暴風雨等の際には、浪除堤内側の一枚通りの畑については、漁船の船揚場利用は御免であつた。又北方愛染川口附近では、閂洲は前記 「寛延度御裁許江尻漁業場」 見通し地域迄は未だ發達してゐなかつた。寶永地震には海岸一帶が陷没し、一部では宿の直ぐ裏迄海浸が行はれた。又三保岬の尖端部も陷没し、江尻浦に對する防波堤的作用もなくなつてゐた。3. 延享三年 (二四〇六年) 右江尻浦浪除堤外の芝間地區に對し、第一次の新開願が辻村より提起された。a. 辻の申立は、開墾許可の上は浪除堤は辻村自普請にてなすこと、願所芝間については他部落との入會關係なく、地形發達によつて場廣であるので江尻漁業にも支障なく、又漁業用地としては、愛染川向にも、願所の南北に隣る空地にも利用可能地がある旨を具陳した。b. これに對する江尻宿答申の要旨は、辻村新開願所は船役米・肴運上上納の江尻漁業場であること、又舊來諸種の出役をなし居ること、これらに對し、辻村では嘗て運上・諸役勤の實績のなきこと等を擧げて、新開に反對した。c. 裁許は寛延二年 (二四〇九年) になされたが、 (イ) 江尻裏田地は凡て辻村地籍である。浪除堤敷・堤上松林も又辻村所屬とする。 (ロ) 但し、辻の新開願場所は豫て運上納入の江尻魚獵場につき、依然江尻利用とし、新開は許可しない。從つて右地所に對し江尻より芝永を上納すること、と全般的な地籍は辻村歸屬とし、その中漁業用地に限り、江尻宿自由進退場として裁許された。4. 翌寛延三年辻村より追訴し、前々新開願場所の芝永及び船揚場見取年貢の納入につき、江尻より直納せるを辻村經由に改め、自村の地籍權の所在を年貢納入法に於ても明確に示さんとした。が、この地區は辻村農業支障とはならないので、この願は單なる名義要求として却下され、運上納入は依然江尻より直納として裁許された。5. 上記 「寛延度御裁許江尻漁業場」 へ對し、安永七年 (二四三八年) に江尻出作より、又同九年には江尻役人より夫々新開願を提出したが、何れも不許可となつた。特に江尻宿へ對しては自部落の裁許魚獵場につき新開出願を爲すのは不見識とし、將來に對して嚴重戒告された。6. 寛政六年 (二四五四年) 右御裁許魚獵場の一部 (江尻申立では二反歩) に對し、江尻漁民が甘蔗植付をなし辻村より摘發された。江尻では半ば官命によるものと申立てたが、裁許に際し、從來江尻は累次の辻村の薪開願に對し 「魚獵場支障」 を以て反對し來れるも、自らその意義を喪失せしめたるものとして、嚴禁の旨示達され、又獵師惣代へ對し過料錢を命ぜられたのであつた。7. 天保十二年 (二五〇一年) には辻村とその北隣の嶺村と共同にて、各々自己部落海岸附屬洲への新開を提出したその理由としたのは、兩部落の耕地は人口數に比し狹少に過ぎ、爲に從來他部落耕地を請作してゐる等部落經濟の窮状を述べ、海岸附寄洲も寛延度に比し著しく發達し. 開發可能地域も廣まり、魚獵場支障もなしとした。特に嶺では愛染川上流部に惡水落口樋の取替により、廣地域 (三五町歩) の田畑が出來る旨を述べた。しかしこれも不許可となつた。8. 弘化二年に至り辻村は再び、 「寛延度御裁許魚獵場」 南北の芝間空地の開墾を出願した。出願理由は前々の出願に於けるものの繰返しに過ぎなかつたが、弘化三・四年