- 著者
-
渡植 彦太郎
- 出版者
- 富山大学経済学部経済研究会
- 雑誌
- 富大経済論集 (ISSN:02863642)
- 巻号頁・発行日
- vol.4, no.2, 1959-03
これは純粋な思弁哲学上の問題ではない。史的唯物論において存在が意識を決定するといわれる場合の存在と意識との関係を社会理論の視点から考えて見たい。この場合存在とは意識の外部にあってこれと独立しているものを指すと共に物質の社会的生産と関連して考えられている。したがって、それは単に自然的存在に止るものでなく、寧ろ社会的な存在としなければならない。ところが観念論の立場からは、社会的存在自体が既に意識の媒介なしに考えられないとするのであるから、存在が意識を決定するといっても、一つの意識的なものが他の意識を決定するという工合に解せられざるを得ない。更に史的唯物論は経済的なものを同時に物質的と見倣すが、観念論の立場からは、経済的なもの自体が既に文化として当然意識と関連すると考える。したがって経済的なものが下部構造として上部構造としての意識形態を決定するという命題を到底受入れることが出来ないことになる。否、更に進んで、逆に意識形態が経済的なものに大きく作用を及ぼすことを認めざるを得ない。マルクス主義もイデオロギーが或る種の反作用を経済的なものに及ぼすことを否みはしないが、究極的に決定するものは経済的なものであることを譲歩しはしない。そこで観念論の立場で、イデオロギー其の他の上部構造によって決定されるとする経済的なものと、史的唯物論において、上部構造を決定するとする経済的なものとは、同じ名称の下に相異るものを指していうのではないかという疑問が当然生じて来る。このような疑問は筆者がマルクス主義をよく理解していないが故の幼稚な疑問であるかも知れないが、一方ストレチーの如き一応マルクス主義者であった人迄が、上部構造としての政治が経済を大きく支配することを、主張するのを見れば、筆者の疑問は必ずしも幼稚なものとして斥けられてよいとは思われない。そこで以下少しくこの筆者の幼稚な問題を掘り下げて見て、識者の教えを乞い度いと思う。